empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

ペルセポリス

また読書感想文を書こうと思います。これもちょっと前に読んだ漫画なので記憶が不確かなところがありますが…

今回は「ペルセポリス」です。

ペルセポリスI イランの少女マルジ

ペルセポリスI イランの少女マルジ

ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る

ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る

この作品はイラン出身でフランス在住の漫画家マルジャン・サトラピ氏が自分の半生を描いた自伝的な作品です。日本での発売は2005年。

私は、作者(以下、マルジ)のイランでの少女時代の話が印象的でした。
色々環境は違いますが、子供時代の話は何か自分が子供の頃を思い出させるようなところが多くて親近感が持てます。何というか、ちびまる子ちゃんを連想させるものがありました。

とはいえその頃のイランは政治的には不安定な時期です。マルジの幼少期はイランはまだ帝政(パフラヴィー朝)で、反体制派が弾圧され秘密警察に惨殺されてしまうような時代です。

その後イスラム革命が起きて帝政は倒れますが、これで世の中が良くなるかと思いきや、新たな体制は宗教的原理主義の体制であり、ベールをかぶるように強要されたり、酒を飲むことが禁じられて酒を隠さなければならなくなったり、西洋の文化が弾圧されたりして自由が失われていきます。この体制下でもやはり反体制派の人が暗殺されてますしね…

マルジの父親(親戚だったかも?)がうなだれて、「(世の中は)すぐよくなるさ…」と言っていたシーンが印象的でした。

それにしても、マイケル・ジャクソンのバッチを見とがめて、怒って補導しようとしてたおばさんが、厳しい顔しながらも結局見逃してくれたらしいのはちょっと慈悲を感じましたね…

その後、海外に留学して(記憶ではフランスに行ったのかと思ってましたが、先程調べてみたらオーストリアのフランス語学科だったらしい)、またイランに帰ってきてから、またイランを離れてフランスに行くことになります。この辺にはわりとサラッと描いてありますが、本人には色々と確執があっただろうな…と思わせるところがありましたね。でかいネズミ怖い…


個人的に印象的だったのは、マルジ(と家族)の国家観とか民族性とかの認識でした。


「国」「政治体制」「民族」「宗教」のような、ともすれば日本では一体のものとして認識されがち(と思われる)な諸要素が、実際にはあくまでも別々の要素なのであるということを再認識させられます。

マルジはいわゆる「リベラル」な考え方をしていて、イランの政治体制にも宗教にも批判的ですし、若い頃は隠れてアメリカの音楽を聴いていたりもしますが、しかし自らがイラン人であることに誇りと愛着を持っており、留学先で差別されたときには毅然と対応しています。

「お前ら黙れ!私はイラン人だし、それが誇りだ!!」

うーんかっこいい…

私はこれを読んだ当時、我が身を顧みた記憶があります。私にはこれほど確かな民族意識があるだろうか?多分ないだろうな…
いや、そもそも私は日本人ではあるが、その「日本人である」とはどういうことか…?

伝統的に、日本の右派は天皇制を支持する傾向があり、それによって自らと日本国を規定するような傾向もあります。
しかし、「天皇を戴く国」というのはあくまでも一つの「政治体制」であって、自らの民族的なルーツではないわけです。現代では「日本国籍」を持っていることが「日本人」であることの法的な根拠ですが、それも言ってみれば一つの「体制」による保証であって、民族的なルーツとは別です。

では「民族的に」日本人であるとはどういうことか?神道や仏教の徒であればそうなのでしょうか?しかしそれでは、キリスト教徒やイスラム教徒の日本人は日本人ではないのでしょうか?そんなことはありませんが、では日本人を「日本人」としているのは何でしょうか…?

日本語を話すことでしょうか?しかし、海外の日系人でもし日本語を話せない人がいたとしても、その人が民族的に日系人であることには変わりないでしょう。
あるいは「血統」として日本人であるということでしょうか?しかし歴史をさかのぼれば、日本人にも複数のルーツがあって血統などはまちまちなものですし、では日本人であるとはどういうことか…そんな、民族性とアイデンティティーの関連性を考えさせる作品でもありました。

それと印象的だったのは家族の絆の強さでしたね…。政治体制が不安定だからこそ、家族の結び付きが強いのでしょうか。その辺は中国の事情とも似ている気がしました。

薔薇は美しく散る

ブログにしたら広告というか商品を紹介できるようになったので、読書感想文的なことをやっていこうと思います。
と言っても今回の作品はけっこう前に読んだものなので記憶が不確かな面もありますが。

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突然ですが、皆さんは少女漫画は読みますか?

大抵の男性がそうであろうのと同じように、私も人生の大半は女性向けのコンテンツは読まずに過ごしてきました。
しかし、ある漫画を読んだことがきっかけで、なんや少女漫画面白いやん!と思うようになったのでした。そのきっかけとなったのがこれです。

はい、「ベルサイユのばら」いわゆるベルばらです。

言わずと知れた古典的名作ですが、名前は知ってても実際に読んだことはないって人も多いのではないでしょうか?

私も実際に読むまでは、なんかまつ毛が長くてキラキラしてるイメージしかなかったんですが、読んでみたら、これが大変面白い漫画でした。名作扱いもうなずける。
まぁ実際キラキラしてる描写はあるんですけど、それは昔の少女漫画だからそんなもんでしょう。しかし全体としては、むしろ硬派といってもいいような作りだった気がします。


この作品はまず、歴史ものとしてとてもよくできていると感じました。なんか昔見たテレビで、本家フランス人がこれを読んで「日本人が書いた作品なのにフランスの歴史をちゃんと調べていてびっくり」みたいなこと言ってましたが、実際そんな感じがします。史実をなぞりつつ、創作をうまいこと織り込んでいる感じ。


そして登場人物にとても共感できる。
恋愛要素もありますが、恋愛だけではなく、それも含めていわば人々の人生そのものを描いている感じですね。(これは他の少女漫画でもそういう傾向あると思いますが)
題材が題材なだけに、政治的な要素も大きい。

ロベスピエールが革命について熱く語るシーンは良かった。

最近日本もLGBT差別の問題で揺れていましたが、特殊な環境ゆえに自らのジェンダーロールに悩み、どう生きるべきか迷うオスカルの姿には、そういう点で現代的な意味があるかもしれません。まぁオスカルさんは家庭の事情で男装してるだけで、LGBTではないんですけど。

オスカルの最後のセリフが意外と(?)政治的なセリフだったのもよかった。愛する人の名前を呼んで終わるとか、そういうノリじゃねぇんだよ!さすがオスカルさんやでぇ…


あとジェローデルは最初出てきた時はなんか裏がありそうなキャラだと思ってたら、普通にいい奴だったのが意外だった。ジェローデルは旧体制の良心というか、旧体制における模範的な価値観の体現みたいな感じがしますね。騎士道というか…

この作品はわりと革命勢力側に肩入れしてる感じですが、一方では旧体制側にも同情的な面がありますし、革命の負の側面にも言及しているのも良いですね。あれでもソフトな描写かもしれませんが。


マリーアントワネットの恋愛はぶっちゃけ「不倫」と言ってもいいようなものですが、事情が事情だけにあまり非難する気にはなれない。むしろ同情してしまう。私にも、ある意味似たようなというか、あれと通じるような経験ありますし。

作品全体の終わり方がけっこう暗い終わり方なのも印象的です。フェルゼン…いいやつだったよ。

番外編の黒衣の伯爵夫人も面白かった。まさかあの人が出てくるとは…まぁあの人は生きてた時代も地域も違うんで、あれは創作というかオマージュみたいですけど。

あまり内容を語りすぎるとネタバレになるので控えますが、とにかく大変面白い作品でした。皆さんも読んでみるといいと思いますよ。

人権を規定する意味とは?

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人には自然権(人権)があることを認め、これを侵害してはならないと定めるのが近代国家の基本ですが、この人権という概念に対してこんな風な異論が寄せられることがあります。

「人には人権があると言っても、現に世の中には生まれてすぐに病気で死んでしまう子供や、紛争地帯に生まれたために戦いに巻き込まれて死んでしまう(人権を侵害されている)子供がいるじゃないか。だから人権などフィクションでしかない」

「雪山で遭難した時に(人権の一部である)生存権を叫んだところで命が助かるわけじゃない。だから人権などはフィクションでしかない」

自分としては、こうした批判は筋違いだと思いますが、こうした意見のために、法律で人権を規定しようがしまいが同じことだと思われてしまうといけないので、反論しておきます。


結論から言うと、人権とは「現実の事態」ではなく、「規範」であるので、こうした批判は当たらないと思います。
つまり、人権とは「現に守られている」ものではなく、「守られる“べき”」ものだということです。

そもそも法とか権利とかはすべからくそういうものですが、どんな法律も「それを定めさえすれば、もはやそれが破られることはあり得ない」などということはないのであって、それが破られることがあり得るし、それを破る者が存在し得るからこそ、それを守らせるための様々な強制力があり、破る者には罰が与えられるわけです。


現実の世の中には人権侵害は数多く存在していることは事実ですし、人権を主張したところでそれがひとりでに守られるわけではないのは当然のことであって、むしろそれを守るためにこそ、軍や警察や裁判所があるわけです。人権とは規定してひとりでに守られるものではなく、それが守られる「べき」であると定め、そのための行動を正当化することに意義があるというべきです。

で、「規範」ということについて言えば、現代的な人権という考え方自体は比較的近代になってできたものではありますが、そこに表されているような価値観は従来から存在していたものです。

つまり私達は、もし自分が通りすがりの人に突然殴られ、傷つけられたり殺されたりするとしたら、それを「不当なこと」だと思い、そのようなことが起こらないように防がれ、もし起こった場合には、その加害者に罰が与えられる「べき」だと思うはずです。

またもし、他人に誘拐され、詐欺や暴力によって自分が望まないような強制労働を無理矢理させられるとしたら、やはりそれを「不当なこと」だと思い、そのようなことが起こらないように防がれ、起こった場合には加害者に罰が与えられる「べき」だと思うはずです。

またもし、自分の財産を暴力によって奪われ、または詐欺によって騙し取られたとしたら、やはりそれを「不当なこと」だと思い、そのようなことが起こらないように防がれ、起こった場合には加害者に罰が与えられる「べき」だと思うはずです。


つまり、人の生命や自由や財産は尊重されるべきものであって、正当な理由なくそれを侵害してはならないと見なされます。
こうした価値観が古代から存在していることは、こうした行為を禁じる法の存在からわかります。
そして「なぜ」それが尊重されるべきなのかと言えば、それは人の自然の本性とものごとの道理からしてそうなのであって、それで自然権(天賦人権)ということになりますが、「権利」とは法律用語であります。

つまり人権の規定とは、この「人の尊重」を「法的に」規定し、義務づけることだと言えるでしょう。


もちろん、人権を法律で規定しようとしまいと、人の自然な存在自体が変わるわけではありません。しかし、これが規定される場合には、人権を尊重することが「法的に」義務づけられ、これを侵害してはならないとされ、それを守るために様々な力が行使されます。

一方で、もし人権が「法的に」義務づけられなかったらどうなるかと言えば、その場合、「人の尊重」は一種の倫理的な徳になるので、強制力はなく、人の「善意」に委ねられることになります。
つまり、人の生命や自由や財産が守られることは義務ではなく、「親切な人ならそれを守ってくれるだろう」ということになります。


ですから、もし人が、「世の中の人々は強制されなくても善意で私の生命や自由や財産を尊重し守ってくれるはずだし、その状態が今後もずっと続くはずだ」と思えるほど他人の善意に全幅の信頼を置けるのならば、その場合は法律で人権を規定しなくても構わないだろうし、そもそもその場合には、たぶん法律自体が必要ないということになるでしょう。


しかし、もちろんそんな事はないので、やはり世の中には法律が存在しますし、大事なものは人の善意に任せず、法的に保証されるべきだと見なされます。

そんなわけで、法律で人権を規定することは必須だと思う次第です。