empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

日本書紀はもっと評価されるべきだと思う

日本の歴史は、教科書に乗っているような学問的な、客観的な立場から書かれたものもありますが、日本の歴史をいわば「主観的」に、「日本の古典から」学びたいなら何を読むべきか?

私は「日本書紀」を推します。

新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)

新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)

新編日本古典文学全集 (3) 日本書紀 (2)

新編日本古典文学全集 (3) 日本書紀 (2)

新編日本古典文学全集 (4) 日本書紀 (3)

新編日本古典文学全集 (4) 日本書紀 (3)

長いので抄訳のものもあります

日本書紀古事記とともに日本の最古の時代を描いたものですが、日本書紀は「正史」であり、当時の朝廷の公認の書物です。記録としても、日本書紀はそれに続いて続日本紀が書かれ、その中で前作である日本書紀の成立の次第が書かれており、その後の日本でも、日本書紀の講義が広く行われていた記録が残っています。

古事記はその前文によれば、太安万侶天武天皇の命を受けて編纂したものだとされていますが、続日本紀には太安万侶の言行の記録もあるのに、彼が古事記を編纂したとは述べられていません。(また、太安万侶日本書紀の編纂にも関わっている)
古事記以外で古事記について言及した記録は、古事記編纂から100年後の時代で、太安万侶の子孫による記録です。こうした不審な点があるため、古事記偽書ではないかと言われていた時代もありました。現在では一般に偽書とはされていませんが、いずれにせよあまり広く受け入れられていた資料ではないと言えます。

そんなわけで、平田篤胤のような後世の国学者は、古事記に日本の本来の心が伝えられていると考えましたが、私としてはむしろ日本書紀続日本紀のラインのほうが、古い時代の日本のあり方を伝えているものだと思います。



内容からいうと、日本書紀の著しい特色の一つは、異伝を多く伝えているところです。
これは特に神代(神話時代の記述)に顕著ですが、本文を書いたあとに、「一書にいわく~~」「一書にいわく~~」という形で、それとは異なった伝承を伝えています。このため、神話も一つのパターンだけでなく、いくつか異なったパターンが伝えられています。
ここには風土記(日本各地の伝承を伝えたもの)ともいくらか並行記述が見られ、まだ統一されていなかった頃の、原初の日本を見る思いがします。

新編日本古典文学全集 (5) 風土記

新編日本古典文学全集 (5) 風土記

また上に見たように、日本書紀は複数の資料(名が挙げられていたりいなかったりする)を参照して書かれており、その間のつじつまを合わせようとして、客観的な記述になるように気を使っている面も見られます。もちろん、朝廷にとって都合のいいように編集しているところも多いのですが、そこは注釈を見ながら読んでいくといいでしょう。
例えば、日本書紀神功皇后卑弥呼に比定しているので、この時代を基準にして外国の資料と年代を合わせているようです。しかし実際には神功皇后卑弥呼の時代よりも前の人らしく、そのつじつまを合わせるためにその前に何人かの天皇の時代を差し挟んでいるようですが…

日本書紀が参照している資料の中には「魏史倭人伝」のように今に伝わるものもあれば、「百済本紀」や「天皇記」のように今には伝わっていないものもあります。こうした資料を集めて作っているという点で、古代史への興味をかきたてるものになっています。

続日本紀も良いです。私が読んだのは現代語訳がついてない版だったので読むのに少し苦労しましたが。続日本紀では異伝がなくなっており、文書作成の仕方が統一されてきた時代の流れを感じますね。

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)


ちなみに日本書紀漢籍(中国古典)からの引用が多いので、平田篤胤のような国粋主義者はこれを不満に思っていたようですが、私としてはむしろそこに当時の時代状況を見るべきだろうと思います。まだ十分に統一されていなかった頃の日本では、漢籍が知識人階級の共通の教養で、それによって人々をまとめる意図があっただろうと思うからです。


個人的な感想を言うと、私は古事記を読んだ時は、天皇制と日本の成り立ちがこのようなものの上に成り立っているのだとしたら、それは到底受け入れがたいものだと思いましたが、日本書紀を読んだ時には、これなら一部修正すれば現代でも通用しそうだと思いました。私が天皇制と日本を肯定的に見れるようになったのは、日本書紀続日本紀によるところが大きいと思います。
なので個人的には、日本書紀はおすすめの書籍です。

読経しちゃうぞ!&さんすくみ

また読書感想文(漫画の)です。

今回紹介するのはこちら。「読経しちゃうぞ!」(読み切り)と、それが連載化された「さんすくみ」(全10巻)です。

読経しちゃうぞ! (フラワーコミックス)

読経しちゃうぞ! (フラワーコミックス)

さんすくみ 1 (1) (フラワーコミックスアルファ)

さんすくみ 1 (1) (フラワーコミックスアルファ)

おおざっぱに内容を言うと、神社の息子(神道)と、お寺の息子(仏教)と、教会の息子(キリスト教)の、仲良し二十代男子三人が色々やる話です。日常系with宗教とでも言うべきだろうか。なかなか異色の作品ですね。
たぶん「さんすくみ」から読み始めても大丈夫でしょうが、「読経しちゃうぞ!」も面白いので、そこから読むのがオススメです。

漫画で宗教を扱うと、宗教同士の対立の話や、特定の宗教をディスる内容になりがちな気がしますが、この三人はとても仲が良い上に、お互いの信条を尊重している感じがして大変良いです。皆がこうだったら世の中はもっと平和になるだろうなぁ…
一応少女漫画ですが、老若男女楽しめる作品だと思います。

宗教家の知られざる苦労話も分かるかも知れません。神社の息子だと笙(楽器)を習わないといけないのか…?

私は長崎旅行のエピソードが好きです。あとヤクザの葬式とかクリスチャン・メタルとか。クリスチャン・メタルの人は終盤で出てきただけに出番が少ないのが残念やね。

あと内容とは関係ないですが、連載されていた時期の関係で、登場人物の携帯が途中でガラケーからスマホに変わっているのが趣深い…

ちなみにこの物語の舞台は奈良らしいです。ちょっと奈良に行ってみたくなる。

なぜ左派は内ゲバするのか

日本の左派やリベラル派はよく仲間割れしていると言われますし、実際ちょくちょくそれが目につきますが、これは何故なのでしょうか?
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他でもよく似たようなことが言われますが、それはそもそも「左派」と呼ばれる集団は、元々まとまった一つの集団ではなく、言ってみれば「右派ではない」集団の総称だからだと思います。

つまり「右派」というのは、その国の主流派、または伝統的なやり方に適応した人々のことであり、それに適応していない人々の集団がまとめて「左派」と呼ばれているのであって、
実際には民族的マイノリティの集団、性的マイノリティの集団、宗教的マイノリティの集団、またそれとは別に単純に政治的に左派である人々など、それぞれ異なった背景と思想を持った集団の集まりなのだろうと思います。(さらに、これらの集団の間でも細かい違いがある)もちろん、マイノリティだからといって左派とは限りませんが。
ですから、その諸集団の間ではそれぞれ思想も背景もルールも異なるのであって、であれば内輪揉めするのもある意味自然ではあります。いや、内輪揉めというより、元々異なった集団の対立というべきでしょうが。


で、このようないわゆる「左派」が分裂しているのが左派の弱さの一因だとも言えるでしょうが、ではこれをどうすればいいのかといえば、私としては、無理にその差異を無くそうとするのではなく、それぞれが独自性を発揮しつつ、協力できるところでは協力するのが良いと思います。月並みな言い方ではありますが、相互尊重しつつ共生するということです。

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言ってみればこれは地方創生のようなもので、各地方にはそれぞれの独自性があるわけですが、その独自性をなくしてしまっては地方創生にならないでしょう。
むしろその独自性を発揮し伸ばし、時には改良しつつ、また他の地方とも協力していくのが良いやり方だと思います。
更に言えばこれは個々人の関係とも同じようなものであって、人々はそれぞれの個性がありながら、また他とも協力しあって生きている(あるいは、そうするべきである)のであって、要はそれが自由、平等、そして友愛というリベラリズムの理念であるわけです。

もちろん、それぞれ違う集団が独自性を発揮しつつ共生していくためには、共通のルールを守ることが必要であって、自己を保ちつつ他者も尊重し、他者の権利を侵害しないということが必要です。
で、要はそれが、法的に言えば自然権(人権)、民主主義、法の支配、政教分離三権分立といったルールなわけですが、こうした共通のルールを守るためになら、異なった集団も協力することができるでしょう。

異なった集団の集まりであることは弱さともなり得ますが、例えばアメリカなども、元々異なったルーツを持った集団が集まってできた国であって、(主にヨーロッパ系ではあるものの)英国系、フランス系、スペイン系や、ピューリタン系、国教会系、クエーカーやバプテストやカトリック系などの異なった集団が集まって、しかし共に協力して英国から独立して、西側世界の雄となりました。カナダのトルドー首相も言っていましたが、「多様性は弱さではなく、むしろ強さである」というわけです。(もっともこれは、「強さである」というよりは、「強さとなり得る」というべきでしょうが)

よく政党について、それがある人々の「受け皿となる」と言われますが、多くの人にとって、政党や政治は「受け皿」ではあっても、自分自身の「背景」「ホームグラウンド」というわけではないでしょう。(無論そうでない場合もあるでしょうが)
人々にとって根本であるのはやはりそれぞれ「自分自身の」人生であり、それを守り、より良きものにするために、人は政治を行いもするわけです。

ですから、人は各々、自分自身のよって立つところ、自分自身のルーツとアイデンティティに立ち返り、それを確かなものとして守り育てるべきでしょう。そして、自らの仲間とのつながりを深めるべきでしょう。そうしてこそ、そこを拠点にして、新たな活動を始めることもできるだろうと思う所存です。もちろんそれと共に、自分とは異なった他者を尊重することも必要ですが。

特に日本においては、人は自己主張が苦手で、自分を押し殺して生きる傾向があるように思いますが、人はもっと自己を尊重し、自己を守って生きていくべきでしょう。その点で、近年LGBTの権利が主張されるようになり、カミングアウトする傾向があるのは一つの転機かも知れません。


クリスティの小説の中に、「人の真の悲劇は、人が変わってしまうことではなく、人が変わることができないことだ」という台詞がありますが、私はこの台詞の正しさが骨身にしみています。人はどうしたって、自分自身以外のものにはなれないでしょう。また私としては、なりたいとも思いません。どこまでも自己であり続けること、それが個人を尊重するというリベラリズムの基本だと思います。


Be yourself, no matter what they say.
「お前自身であり続けろ。他人が何と言おうとも」
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