empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

自然法思想

最近気づいた、というか意識し始めたことですが、どうやら私の政治思想は基本的に自然法思想にもとづいているようです。

私が人権にこだわっているのも、歴史的に言えば人権(自然権)思想は自然法思想から発展してきたものだからなんでしょうね。

参考

自然法
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95-73628
自然権
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%A8%A9-73573


自然法思想は「自然」の道理にもとづいて(あるいは自然の背後にある神の意志や、自然の本性としての人の理性にもとづいて)、人の行動を規定する法規範を導き出すものです。

例えば、「人は互いに協力し合う性質を持っている」→「人は互いに協力し合うべきである」→「だから、他人を傷つけたり苦しめたりしてはならない」といったものです。


日本の政治風土は儒教がベースになっているように思いますが、私にはそれが合わないと思うのは、私の政治思想が自然法思想にもとづいているからなんでしょうね。

私が儒教よりも自然法思想を推すのは、それが儒教よりも普遍的な道理だと思うからです。
私の見るところでは、儒教は「家族」と「君主と家臣」の関係が、すでに存在しているという前提から出発しています。ですから、この君臣父子の関係自体の正当性はあまり問われていない、むしろそこから外れる者は人非人だといった考えに至る傾向があると思います。後世の儒教は必ずしもそうではないかもしれませんが。
一方で自然法の思想は、こうした関係以前の、人間の「自然」の本性にもとづいているので、より普遍的な基盤のもとに立っていると思います。

で、この自然法思想はストア派などの古代ギリシャの哲学から発展してきたものですが、それはつまり「理性」にもとづいているということです。ですから、古代ギリシャ多神教とは異なった信仰を持ったキリスト教会からも受け入れられてきましたし、今日の政教分離原則の下でも(そこから発展した人権という形で)生きています。「信仰」ではないからこそ、異なった信条を持った人々にも受け入れられるわけです。
そういうわけですから、自民党の某議員が「天賦人権(自然権)思想は西欧のキリスト教の思想だから日本には合わない」とか言っていたのは的外れな意見であります。

さらに言えば、明治天皇も五ヶ条の御誓文の中で「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし」(これまでの悪い習慣を捨てて普遍的な道理にもとづくべし)と述べています。この点は私も同意できるところです。
明治以降の日本が西欧の思想や制度を取り入れてきたのもこの精神によるものでしょう。
参考↓
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html
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(明治神宮ホームページより)

私が自然法思想を推すのは、この明治以来の流れの一環だとも言えます。そういうわけですから、私も明治天皇のこの遺志を継いで、どんどん自然法の思想にもとづいていこうと思う所存です。

「自己責任」の範囲はどれ程か?

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世の中ではよく「自己責任」の思想が取り沙汰されます。
この自己責任思想こそ格差や無慈悲さなどの諸悪の根源のように言われることもありますが、一方では、じゃあこの世には自己責任など存在しないのかと言えば、またそうでもないでしょう。

それで、「自己責任」の範囲とはどれ程なのかについて、私なりに考えてみました。




結論から言えば、ある行為についての「自己責任」とは、狭い意味では、その行為が当人の能力の範囲内にある場合に当てはまることだと思います。

例えば、ある人が働こうと思えばいつでも働くことができて、働いた場合と働かなかった場合の結果を十分に予測できたのにも関わらず、あえて働かなかった、そしてそのために当人が貧困に陥ったという場合、それは自己責任だと言われても仕方ないでしょう。

一方で、病気やケガや障害などで、働こうと思っても働けない、または現状への認識が欠けていて働く必要性を認識できていなかった場合には、貧困に陥っても、それは自己責任だとは言えないでしょう。

(もっとも、実際の労働については、もっと複雑で様々な要素が絡んできますから一概には言えませんが、それについて一律に「自己責任」だと断じることから、劣悪な労働環境が放置されていたり、格差が拡大するといった問題が起こっているものだと思います)

また別の例で言えば、例えば犯罪の場合、ある人に盗みを行う能力があって、また盗まない能力もある、つまり「盗むことも盗まないこともできる」という場合、そして自らの行為の違法性をわきまえ自らの行為の結果を予測できる場合に、それでもあえて盗んだ、という場合、この人が罪に問われて罰を受けても、それは正当なことだと見なされます。

一方で、精神の錯乱のために自分が何をやっているか分かっていないとか、誰か、または何かに強制されて無理やり盗みを働かされたという場合には、この人は自分の行為について責任を問われない場合があります。(あるいは、情状酌量で罰を軽減されるなど)

ですから刑事裁判では、ある人の行為について、その人に「責任能力」があったか否かが問われます。
これは、人が責任を問われるのは、その人の能力の内にあることについてだからです。

ですから、人は自分の知らないところで起こった他人の行為については責任を問われませんし、予期しない事故や天変地異についても責任を問われません。それは、その現象がその人の能力を超えることだからです。


そして、「自己責任」とは、狭い意味では、こうした自己の能力の範囲内にある行為について当てはまることだと私は思います。

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またより広い意味では、自己の能力の範囲外のことでも、当人以外の誰もその責任を負えない場合には、それが自己責任とされることもあると思います。

例えば、スポーツの試合では、自分がベストを尽くしたとしても、力及ばず相手に負けることがあり得ます。
その意味では、試合の結果は自分の能力の範囲外のことではありますが、しかしその結果は試合に出た当人以外の誰も負えないので、この場合には「自己責任」ということになるでしょう。(もっとも、この場合は「そのスポーツをして、試合に出る」という決定を下した時にその責任を負っていると言えるかもしれませんが)

またこれと同じ例では、たまたま出かけた地域で災害にあった場合とか、予期せぬ犯罪に捲き込まれた場合とかも、他の人がその責任を負えるわけではないので、広い意味では自己責任と言えるかもしれません。


で、以上のようなことが「自己責任」の範囲だと思いますが、やはり本来の意味では、自己の能力の範囲内にあることこそが自己責任だと思います。


ですから、世の中の一切のことについて「それは自己責任だ」と見なす考え方は、「自分が頑張りさえすれば万事どうにかなるはずだ」という、自己の能力への過大評価に基づいている考え方だと言えます。
その意味で、これは自己中心的な考え方が行き過ぎたために起こった現象で、前に書いた「民主制の社会で自由が行き過ぎると、かえって独裁に陥ってしまう」という現象に通じることかもしれません。


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こうした自己責任論は、大企業の経営者などのいわゆる「成功者」によって唱えられていることが多いように思いますが、こうした人が自己責任論を唱えるのは、自分が成功したのは自分が何らかの点で恵まれていたからだということについて無自覚になっているか、あるいはそれを自覚しながら、社会に対して責任を負わずに済むためにそう言っているものと思われます。

というのは、万事を自己責任だとみなせば、困窮している他人についても、それは自己責任なのだから自分でどうにかしろと突き放して、その人の困窮について責任を負わなくて済むからです。
これは、社会的に地位のある恵まれた人が、恵まれない人々を保護して社会貢献するべきだという、いわゆる「高貴な義務」(ノーブレス・オブリージュ)を逃れるための手段となり得ます。

さらには、単に経営者などの富裕層に限らず、もし政府が率先して自己責任論を唱えるとしたら、それは政府が「国民の面倒を見る」「公共の福祉のために働く」という役割を放棄することにもつながりかねません。

そういうわけですから、自己責任論は自分で責任を負いきれる事柄については当てはまりますが、あまり拡大解釈して世の中に当てはめると、それは自分で自分の首を絞めることになると思う次第です。

日本書紀はもっと評価されるべきだと思う

日本の歴史は、教科書に乗っているような学問的な、客観的な立場から書かれたものもありますが、日本の歴史をいわば「主観的」に、「日本の古典から」学びたいなら何を読むべきか?

私は「日本書紀」を推します。

新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)

新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)

新編日本古典文学全集 (3) 日本書紀 (2)

新編日本古典文学全集 (3) 日本書紀 (2)

新編日本古典文学全集 (4) 日本書紀 (3)

新編日本古典文学全集 (4) 日本書紀 (3)

長いので抄訳のものもあります

日本書紀古事記とともに日本の最古の時代を描いたものですが、日本書紀は「正史」であり、当時の朝廷の公認の書物です。記録としても、日本書紀はそれに続いて続日本紀が書かれ、その中で前作である日本書紀の成立の次第が書かれており、その後の日本でも、日本書紀の講義が広く行われていた記録が残っています。

古事記はその前文によれば、太安万侶天武天皇の命を受けて編纂したものだとされていますが、続日本紀には太安万侶の言行の記録もあるのに、彼が古事記を編纂したとは述べられていません。(また、太安万侶日本書紀の編纂にも関わっている)
古事記以外で古事記について言及した記録は、古事記編纂から100年後の時代で、太安万侶の子孫による記録です。こうした不審な点があるため、古事記偽書ではないかと言われていた時代もありました。現在では一般に偽書とはされていませんが、いずれにせよあまり広く受け入れられていた資料ではないと言えます。

そんなわけで、平田篤胤のような後世の国学者は、古事記に日本の本来の心が伝えられていると考えましたが、私としてはむしろ日本書紀続日本紀のラインのほうが、古い時代の日本のあり方を伝えているものだと思います。



内容からいうと、日本書紀の著しい特色の一つは、異伝を多く伝えているところです。
これは特に神代(神話時代の記述)に顕著ですが、本文を書いたあとに、「一書にいわく~~」「一書にいわく~~」という形で、それとは異なった伝承を伝えています。このため、神話も一つのパターンだけでなく、いくつか異なったパターンが伝えられています。
ここには風土記(日本各地の伝承を伝えたもの)ともいくらか並行記述が見られ、まだ統一されていなかった頃の、原初の日本を見る思いがします。

新編日本古典文学全集 (5) 風土記

新編日本古典文学全集 (5) 風土記

また上に見たように、日本書紀は複数の資料(名が挙げられていたりいなかったりする)を参照して書かれており、その間のつじつまを合わせようとして、客観的な記述になるように気を使っている面も見られます。もちろん、朝廷にとって都合のいいように編集しているところも多いのですが、そこは注釈を見ながら読んでいくといいでしょう。
例えば、日本書紀神功皇后卑弥呼に比定しているので、この時代を基準にして外国の資料と年代を合わせているようです。しかし実際には神功皇后卑弥呼の時代よりも前の人らしく、そのつじつまを合わせるためにその前に何人かの天皇の時代を差し挟んでいるようですが…

日本書紀が参照している資料の中には「魏史倭人伝」のように今に伝わるものもあれば、「百済本紀」や「天皇記」のように今には伝わっていないものもあります。こうした資料を集めて作っているという点で、古代史への興味をかきたてるものになっています。

続日本紀も良いです。私が読んだのは現代語訳がついてない版だったので読むのに少し苦労しましたが。続日本紀では異伝がなくなっており、文書作成の仕方が統一されてきた時代の流れを感じますね。

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)


ちなみに日本書紀漢籍(中国古典)からの引用が多いので、平田篤胤のような国粋主義者はこれを不満に思っていたようですが、私としてはむしろそこに当時の時代状況を見るべきだろうと思います。まだ十分に統一されていなかった頃の日本では、漢籍が知識人階級の共通の教養で、それによって人々をまとめる意図があっただろうと思うからです。


個人的な感想を言うと、私は古事記を読んだ時は、天皇制と日本の成り立ちがこのようなものの上に成り立っているのだとしたら、それは到底受け入れがたいものだと思いましたが、日本書紀を読んだ時には、これなら一部修正すれば現代でも通用しそうだと思いました。私が天皇制と日本を肯定的に見れるようになったのは、日本書紀続日本紀によるところが大きいと思います。
なので個人的には、日本書紀はおすすめの書籍です。