empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

小池都知事の朝鮮人犠牲者追悼文取りやめについて2

小池都知事朝鮮人犠牲者追悼文取りやめについて、小池氏のこの判断に賛同する声が上がっています。
恐らくこの判断に賛成している人々は、件の追悼文を「朝鮮人に対して謝らされている」ものだと感じており、そのために賛成しているのでしょう。

しかし、この問題を「謝るか謝らないか」の問題だと思うのは、本質を見誤った考え方だと思います。

関東大震災朝鮮人が暴行、虐殺されたことは、特定の民族に対する差別、迫害として、それはもちろん問題です。
しかし、「民族差別」の問題を抜きにしても、この件は忘れられてはならないことだと思います。

なぜなら、この件は「無実の人が、デマのために殺された」ということが問題だと思うからです。というのは、もし本当に当時暴動を起こしていた朝鮮人がいたのだとしたら、それに携わった者が殺害されたとしても、それは(過剰防衛にはなるかもしれませんが)これほどの問題にはならなかっただろうと思うからです。
しかし、「無実の人がデマのために殺される」ということは、それとは別のことです。

当時はたまたま朝鮮人がヘイトを集めていた(今もですが)ので朝鮮人が主な標的になったとしても、この「無実の人がデマのために殺される」ということは、その他の集団に対しても、日本人に対しても起こり得ることであり、また実際に起こってもいます。つまり、関東大震災では朝鮮人に間違えられた日本人や中国人も暴行、殺害されており、また社会主義者などの特定の集団も殺害されています。そしてこのようなデマために暴動や混乱が起こっており、適切な災害対策が妨げられています。そしてそれは、この日本で起こったことです。

つまり、これは「他人に対して謝るか謝らないか」というような「他人ごと」の問題ではなく、私達自身の問題であるわけです。

もし「震災から100年近く経っているのだから、今さら追悼の必要はない」というのなら、(異論はあるでしょうが)まあそれもよかろうと思います。(もっとも、それなら朝鮮人に限らず、震災の犠牲者に対する追悼自体をやめようということになりますが)

しかし、たとえ追悼はしなかったとしても、この件に対する「反省」は決して忘れてはならないことだと思います。なぜなら、以前にも言いましたが、「反省」は他人のためにではなく自分自身のために行うものだからです。「過去にこのような過ちがあった。だからこのようにして、同じ過ちを繰り返さないようにしよう」というのは、他人のためではなく自分のために行われることです。日本の行政がこの件について反省してきたのは、「他人に謝るため」ではなく、この件が日本の行政自身の問題だからであるはずです。

振り返って見れば、東日本大震災では多くのデマが出回ったことが問題になりました。(このデマは今に至るまで尾を引いているように思います)そしてそれにもかかわらず、熊本地震ではまたデマが出回りました。
熊本地震では、「ライオンが檻から逃げた」というデマを流した人が逮捕されましたが、これについて「この程度で捕まるなんてやり過ぎじゃないか」とか「この程度でだまされるほうが悪いんじゃないか」などというたわけた声もありました。
この点からしても、過去の教訓が活かされていないし、この問題が過去ではなく現在の問題であるということが言えます。
そして近いうちに首都直下型地震が来ると言われていますが、この件を忘れ去り、追悼文取りやめに賛同し、さらに当時のデマを再生産する声があちこちで上がっている今のような状況でその地震が来たらどうなるのでしょうか?もう一度暴行、虐殺が起こり、情報が混乱し、救助活動や避難が妨げられるかもしれません。そしてそこでは、私自身がその犠牲になるかもしれないわけです。そういう危機感があるからこそ、私はこれを書いています。(これが杞憂に終わってくれれば、それが一番いいことです)

もしそれでも、「それでも朝鮮人は皆殺しにしなければならないし、そのためにはとばっちりで無実の人間が多少犠牲になってもやむを得ない。そのために救助活動や避難が妨げられ、将来に禍根を残してもかまわない」というような熱心な聖戦主義者ならともかく、それよりは適切な救助や避難が行われ、災害の被害が少しでも少なく済むほうがよい、と考える程度には公益心のある人間なら、この件に対する反省を忘れてはならないと思います。
内閣府防災情報のページから

★「(朝鮮人迫害などについては)これらの要因について個別的な検討を深め、また反省することが必要である。一方で、防災上の教訓としては、植民地支配との関係という特殊性にとらわれない見方も重要である。時代や地域が違っても、言語、習慣、信条等の相違により異質性が感じられる人間集団はいかなる社会にも常に存在しており、そのような集団が標的となり得るという一般的な課題としての認識である」

★「もちろん全てではないが、軍、警察、市民ともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことは重く受け止める必要があろう」

★「殺傷事件の犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1〜数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。また、殺傷事件を中心とする混乱が救護活動を妨げた、あるいは救護活動に当てられたはずの資源を空費させた影響も大きかった」