empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

国旗損壊罪について

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一部の自民党議員が、日本の国旗(日の丸)を傷つけた者を処罰できる(2年以下の懲役か20万円以下の罰金)法律を作ろうとしているとの報道がありました。

「日の丸損壊罪」提出を 自民保守系グループ: 日本経済新聞

自民党有志の保守系グループ「保守団結の会」の高市早苗総務相らは26日、下村博文政調会長と党本部で会い、日の丸を傷つける行為を処罰できる「国旗損壊罪」を盛り込んだ刑法改正案を今国会に議員立法で提出したいと申し入れた。下村氏は了承したという。”


この件についてはすでに日弁連(日本弁護士連合会)の会長が反対の声明を出しています*1が、自分としても同じ趣旨で反対です。


ところで、この法律を作ろうとしている議員たちは、現行法では諸外国の国旗を損壊すれば罪に問われるのに、自国の国旗を損壊しても罰する法律がないのはおかしいと述べているようです。


この件については日弁連の声明の中でも国旗国歌法の制定時の国会答弁でも述べられていますが、諸外国の国旗を損壊したら罪に問われる法律は、その行為が諸外国との衝突を引き起こし、国際紛争に発展しかねないので、それを防ぐという趣旨で制定されたものだと認識しています。(ちなみにこの法律は明治40年❨1907年❩成立で、この罪は「外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない」とされています*2 )つまり、これは「外交関係」の問題です。


一方で、「自国の国旗」については、その国旗をどう取り扱うべきか、またそもそもどの旗を「自国の国旗」として定めるべきかという点についても、それらは国内政治の場で決められることです(日の丸が日本の国旗として成文法で定められたのは1999年の国旗国歌法によってです)。ですから、これは「自国内」の問題です。



ですから、自国の国旗損壊に刑事罰を与える法律というのは、根本的にいって外国との関係の問題ではなく、自国の国旗によって「自国民を」取り締まる法律なのであって、国民の権利の制限になると思うので自分としては反対です。

私自身は今まで日の丸を損壊したことはないと思いますし、また今後そうする予定もありませんが、しかし「しようと思えばできるけどしない」というのと、「したら罰せられるからしない」というのでは意味が違います。前者は自主的な行為ですが、後者は強制による行為だからです。


その上、平成11年(1999年)の国旗国歌法の制定で日の丸君が代が国旗国歌として法的に定められた時には、これに対して根強い反対があったようですが、この時は政府は「国旗の掲揚等に関して義務付け等を行わない」として、義務付けはしないと答弁して制定されています。
またこの時に、「政府としては法制化に当たり、国旗の損壊等を新たに刑罰の対象とすることは考えていない」と答弁しています。

ですから、国旗損壊罪が新たに制定されれば、最初は義務も罰則もないからと言って成立したものが、結局は義務と罰則を伴うものになってしまうということだと認識します。(ここで義務について直接言及されているのは掲揚等についてですが、国旗を損壊したら罪に問われるというのは実質的に国旗への表敬を義務付けることであって、制定時の趣旨にそぐわないものだと思います)

日本学術会議の任命拒否でも似たようなことがありましたが、このような過去の答弁を撤回するためにはそれを正当化するためのそれなりに強力な根拠が必要なのであって、この件にはそのような正当性がないと思います。


国旗国歌法制定時の国会答弁

❝「国旗・日の丸、国歌・君が代」法制化等に関する質問主意書

平成十一年五月二十日提出
質問第三一号

「8 政府の新たなる国旗の法制化において国旗を誰が、いつ、どこで、何のために掲揚せよとするのか。また何を義務化させ、何を尊重し、何を自由意思とするのか、その見解を問う。…

15 刑法九二条(外国国章損壊罪)は、外国の国旗を損壊等すれば刑罰の対象となるが、日本の国旗を損壊等しても刑罰対象にならないのは、そもそも「国旗・日の丸」は、法的根拠がないとの認識からか。それとも刑罰に値しない軽犯であるとの認識か。また刑法制定時になぜこの規定を導入しなかったのか、また政府の新規立法案では、刑罰の対象とするのか否か、四点について見解を問う。」


平成十一年六月十一日受領
答弁第三一号

「一の8について
 政府としては、法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務付けを行うようなことは、考えていない。したがって、現行の運用に変更が生ずることとはならないと考えている。

…一の15について
 刑法(明治四十年法律第四十五号)第九十二条第一項は、外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する旨規定しているが、同条は、刑法第二編第四章の「国交に関する罪」の中に置かれているとおり、我が国の外交作用の円滑、安全等を考慮して、かかる行為を処罰することとしたものと考えられる。
 これに対し、我が国の国旗等に対する同様の行為については、これを処罰する規定がなく、刑法制定当時における具体的な論議は必ずしも明らかではないが、これは、国家の威信の保護の在り方として刑罰をもって強制することが適当かという根本的な問題があることのほか、他人の所有する国旗等の損壊等については刑法第二百六十一条(器物損壊罪)が適用されることなども考慮されているものと考えられ、御指摘のような認識によるものではないと考えられる。
 また、政府としては法制化に当たり、国旗の損壊等を新たに刑罰の対象とすることは考えていない。」❞
「国旗・日の丸、国歌・君が代」法制化等に関する質問主意書
衆議院議員石垣一夫君提出「国旗・日の丸、国歌・君が代」法制化等に関する質問に対する答弁書


❝平成十一年八月十三日

「この国旗及び国歌に関する法律(平成十一年法律第百二十七号。以下「本法律」という。)には、国旗の掲揚等に関し義務付けを行うような規定は盛り込まれておらず、政府としては、現行の運用に変更が生ずることとはならないものと考えている。

 …今回の法制化の趣旨は、長年の慣行により、それぞれ国旗及び国歌として国民の間に広く定着している日章旗及び君が代について、その根拠を成文法で明確に規定するものであることから、国旗の掲揚等に関し義務付け等を行わないこととしたものである。」❞
国旗国歌法制化に関する再質問に対する答弁書:答弁本文:参議院



ちなみに日弁連の声明でも言及されていますが、かつてアメリカでも同じように国旗損壊罪を定めようとする動きがあったようですが、これについては、損壊罪を定めたりしてはアメリカ国旗のよって立つところの自由にかえって反することになるからというので廃案になったそうです。Newsweekでも紹介されていました。
あのアメリカですら自国国旗の焼却が禁じられていない理由 | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト


こういう所からは、国旗であればどれでも同じなのではなく、それが何を象徴しているのかということも国旗の扱いに関係してくるということが言えると思います。

これは日本の国旗が戦前のものを流用していることに対して批判があるのと無関係ではないでしょう。日本の国旗は自由を象徴するものなのでしょうか?そうだと良いのですが。


なお、戦前の国旗がどうこう言うと、日本の戦争被害にあった「諸外国の感情」に配慮するべきなのかということが言われそうですが、これは根本的に国内の問題であって、諸外国への配慮の問題ではない、あってもそれは二次的なものだということは言っておきたいと思います。もし戦前の国旗だから問題があるのだとしたら、それは外国への配慮のためではなくて、戦前の体制が天皇主権の体制であって十分に民主的ではなかったから問題があるのだと言うべきでしょう。
いや、そもそも日本の戦争とそれに伴う行為にしても、それが反省すべきだと言われているのは、「外国から怒られるから」ではなくて、それが悪いことだと自ら認識するからだと言うべきでしょう。もし仮に昔の日本が何も悪いことをしていないなら、たとえ外国から抗議されても反省する必要はないはずだからです。

*1:https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2012/120601_2.html

*2:https://elaws.e-gov.go.jp/document?law_unique_id=140AC0000000045_20200401_430AC0000000072 (外国国章損壊等) 第九十二条 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。 2 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。

新年

2021年ですね。今年もよろしくお願いします。

私は例によって慢性的なうつ状態で去年からなかなか更新もできていませんが、今年は少しずつでも更新していきたいです。

というわけで、景気づけにニンジンをかじるパンダの動画でも載せておきます。


ニンジンが美味しいパンダ


パンダはよくかわいいと言われますが、それは半分あの白黒模様のおかげで、ヒグマやアメリカクロクマのように全身黒や茶色だったらあそこまでかわいい扱いされてないだろうなという気がしないでもありません。

まぁパンダ自身にとってはそんなことはどうでもいいことでしょうけどね。パンダは人間に気に入られるためにあの模様をしているわけではないですし。
とはいえ結果的にはその模様のおかげで人間に保護されているとも言えますが、逆にそれのせいで人間に捕まえられるという面もあるでしょうし功罪あるといったところか。

そういや昔「パンダは中国の動物じゃなくてチベットの動物です!」と主張している人々もいました。今もいるのかな?
この「パンダはチベットの動物」という情報自体も不正確なようですが(後述)、仮にパンダがチベットにしかいなかったとしても、それはパンダがチベット人だという意味ではなくて、「現在はチベット領である地域に生息している動物」という意味でしかないというべきでしょう。
また仮にパンダが中国の動物だと言うとしても、それはパンダが中国人だという意味ではなく、「現在は中国領である地域に生息している動物」というだけのことです。動物には民族としての帰属があるわけではないですし、動物の世界にまで人間の政治事情を持ち込むのはやり過ぎでしょう。まぁ実際の行政としてはその生息地域の国が管理するということにはなりますし、その国の住民がその動物に思い入れを持つということはありますが。



(パンダの生息地について)
上野動物園のサイトによると、パンダは現在は中国南西部の山岳地帯に住んでいます(チベットも中国南西部にある)が、かつてはもっと広い範囲に生息していたようです。wwfのサイトによるとミャンマーベトナムの北部からもパンダの化石が見つかっているとか。またパンダの祖先は北京にも生息していたようです。
あとナショナルジオグラフィックの記事ではパンダの祖先はヨーロッパ南西部から中国に来たとも言われていました。

上野動物園のサイトより引用

ジャイアントパンダは、現在中華人民共和国・南西部にある四川省(しせんしょう)、陝西省(せんせいしょう)、甘粛省(かんしゅくしょう)の標高約1300~3500メートルにもおよぶ山岳地帯の森林で暮らしています。化石などの調査によって、ジャイアントパンダの祖先は約300万年前ころから生息していたようですが、化石の発見が標高500~700メートルあたりでも見られることから、今より低い地域に、そしてもっと広い地域に分布していたことがわかっています。
 パンダが暮らす場所を高山へ移していった理由として、天敵から逃れるためや餌の競争を避けることなどが考えられます。ただ、19世紀に入ってパンダの分布する地域が急激に減少した理由は、中国の人口が増加し生息地の開発がすすんだことが大きな原因です。”

Q6:ジャイアントパンダはどんなところに棲んでいるの?|上野動物園のジャイアントパンダ情報サイト「UENO-PANDA.JP」


wwf
パンダの生態と、迫る危機について |WWFジャパン

「世の中にはもっと苦労してる人がいるんだ」という言説

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私達は、何か今ある苦境を訴えると「世の中にはもっと大変な思いをしている人がいるんだ」と言われることがあるかと思います。

そしてそこには、言外に「だからそれくらいで文句を言うな」という意味が込められていると思われます。

いわゆる、自分の貧困を訴えると「アフリカの子供たちはもっと貧しい生活に耐えているんだ」と言われるとか、そういうものです。
(まぁ実際にはアフリカの子供たちだってその状況は千差万別で、必ずしも貧困ではないはずですが、ここでは一例として使っておきます。)


こういう論法が有効な場面というものもあるでしょうが、よく言われるように、この論法は乱用されると人を不当に抑圧するものとなると思います。

例えば、仮にある貧しい人が自分の境遇に不満があるけど、「アフリカの子供たちはもっと貧しいんだ」と言われて黙って耐えることにした場合、その人自身は貧しいままですし、かといってこの人が自分の貧しさに耐えることによってアフリカの子供たちが救われるのかといったら、別にそんなことはなく、やはり彼らも貧しいままです。
だから結局これは「現状維持」にしかならないわけですし、その現状が望ましくないものなら、その望ましくない状態が続くことになります。


一方で、もしこの人が貧しさから抜け出す努力をして、そしてその努力が実ったなら、その人自身は貧しさから救われますし、そうしてその人が豊かになれば、そのお金を使ってアフリカの子供たちを援助することも、望めばできるようになるでしょう。
だから、これは現状を変更するやり方であり、望ましくない状態があるなら、それを改善する道です。

もちろん、人が現状を改善する努力をしたからといって、必ず望み通りの結果になるとは限りませんが、そういう不確実さは人の行為全般につきもののことですから、それはよしとしましょう。
しかし例え不確実であっても、現状が望ましくないものであり、それとは違う結果を望むのなら、その現状を動かす必要があるのであり、基本的にいってそういう状況はひとりでに改善されることはないと私は思います。


思うに、この「世の中にはもっと苦労してる人がいるんだ」という論法は、「自分はまだ恵まれているのだから頑張らなければ」という具合に自分を鼓舞するためとか、あるいは人の要求が行き過ぎていて、特に必要のないものまで求めていると思われる時に使われるものであって、現状を改善する必要があり、またそれが可能でもある時に使うものではないのだと思います。
現状の改善の必要があり、またそれが可能でもあるのなら、そうする方が、そうしないより良いことであるからです。