empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

改憲について

憲法の改正について、私は、部分的には改憲しても良いと思っています。
とはいえ、私の考えでは、現在の憲法の理念を大切にした上で、変えたり加えたりする必要のある部分は変えるべきだと思っていますので、どちらかといえば、民進党公明党新党改革の立場に近いです。

ところで、改憲の理由として、日本の憲法は日本人による「自主的な」憲法であるべきだという意見がありますが、私はこの意見には決して賛成できません。

なぜなら、一つには、たとえ「自主的な」憲法を作ったとしても、それは今の世代の、それを作った人々にとってのみ「自主的」なのであって、後世の人々や、自分の意見が反映されなかった人々にとっては、決して「自主的」ではないからです。
仮に、今の時代に、十七条憲法大宝律令が復活して、これは日本人が定めた法律なのだから自主的な法律なのだと言われても、現在の私達にとっては、それは決して自主的なものではありえないでしょう。
また、新しく憲法ができても、自分の意見がそこに反映されず、むしろその意見が退けられた人々にとっても、それはやはり自主的なものではありえないでしょう。

もう一つには、こちらのほうがより根本的な問題ですが、法律で問題なのは(法律に限りませんが)、それが良い法律なのかどうかであって、誰が作ったかということではない、と思うからです。

サウジアラビアでは、コーランイスラム教経典)が憲法であり、シャリーアイスラム法)が法律であるとされていますが、サウジアラビアの建国の経緯を考えれば、これはこの上なく「自主的な」法体系だと言えるでしょう。しかし、その結果、サウジアラビアの人々は、言論の自由も信教の自由も満足に認められず、女性は一人で外出もできず、「魔術を使った」という理由で人が公開処刑される、といった状態で暮らしています。

そのような「自主的な」法体系に比べれば、トルコのような、政教分離世俗主義といった、イスラムの伝統にはむしろ反するような憲法に、スイスの民法を移してきたような法律といった、人権や自由が認められている、西欧型の法体系のほうが、私にははるかに良いものだと思われます。

数学で使う「0」の概念は、インド発祥だと言われていますが、インドの外でも世界中で使われています。書物に使うような「紙」は、中国発祥ですが、やはり世界中で使われています。銃火器は西欧で発達しましたが、実際に戦場に行くとなったら、自分の身を守るために、どんな文化的背景の人でも、やはりその銃火器を使うでしょう。

人の言うように、「誰が言ったかを見るな。何を言ったかを見よ。」というわけです。

私は、憲法は、特定の時代や地域にあまり左右されないような、普遍的な価値観に基づいているべきだと思います。
その意味では、現在の日本の憲法は、過去の戦争への反省、という特定の時代的状況に依っている部分があると思いますので、その点では、改正の余地はあるかと思います。
とはいえ、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、といった理念には、普遍的な価値があると思います。(この「平和主義」というのは、必ずしも「非戦論」ではありません。私は、自衛隊は合憲だと思っていますし、日本には自衛権があると思っています)

しかし、改正の余地があるとは言っても、その理由が「自主的な」憲法を作るべきだというものであれば、私は賛同できません。