empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

「シナ」は蔑称か

近頃、沖縄に来た警察官が「ボケ、土人が」や「黙れ、こら、シナ人」と発言したことが問題になりました。

支那(シナ)は中国のことですが、一般にこの呼び方は蔑称、差別語とみなされており、現代日本では普通は使いません。
しかし、これについて次のような意見があります。

「シナとは差別語ではなく、始皇帝の『秦』に由来するもので、英語のChinaなどと同じ語源だ。世界では『シナ』に類する言葉が広く使われており、日本人が使っても問題はない。シナが差別語なら、英語のChinaだって差別語になるはずだ」

「『中国』という呼称は『世界の中心にある国』という意味で、中華思想に基づく傲慢な尊称だ。日本人がそのような呼び方をするべきではない」

私がこうした主張を初めて聞いたのは10年ほど前だったように思いますが、今でもそう主張する人々がいるようです。
それで、この主張に対する私の意見を述べたいと思います。

まず、「シナは差別語ではない」という意見について言えば、「シナ」がそれ自体では差別語ではないというのは、確かにその通りであろうと思います。この呼び名が恐らく始皇帝の秦に由来するもので、英語のChinaなどと同じ語源だということもその通りだと思います。
現に、今でも学問用語としてのシナや、東シナ海、シナチク(メンマ)などの言葉はありますし、私は「支那そば」という看板を出している店を見た覚えもあります。また、戦中世代の人が書いた本で、「個人的には、支那という言葉に悪いイメージはない」という意見も見ました。それは確かにその通りであろうと思います。

しかし、ではシナは差別語ではないのだから、おおっぴらに使って構わないかと言えば、私はそうは思いません。
なぜなら、そもそも差別語とは、それ自体が差別的な意味である必要はないからです。

例えば、「ニガー」(黒人への蔑称)や「ジャップ」(日本人への蔑称)だって差別語ですが、「ニガー」はニグロ(黒、黒人)の転訛、「ジャップ」はジャパニーズの略であって、いずれも「それ自体では」差別的な意味ではありません。
これらが差別語だとされているのは、それらが差別的な意味で使われてきたと見なされているからである訳です。

また、朝鮮語(韓国、北朝鮮含む)では、「チョッパリ」というのが日本人への蔑称ですが、これだって、考え方によっては差別語ではないと言えるでしょう。というのは、チョッパリとは「豚のひづめ」という意味らしいですが(日本人の履いていた足袋がその形に似ていたからとのこと)、これが差別語になり得るのは、「豚」という言葉に、悪いイメージがついている場合に限るからです。

人によっては、「自分は豚に悪いイメージを持っていないのだから、この言葉が差別語扱いされているのはおかしい」という意見があるかもしれません。
しかし、その人も、現にこの言葉が差別語扱いされているからには、あえてその意見を押し通すことはできないだろうと思います。それは、「黙れ、こら、ニガー」とか、「黙れ、こら、ジャップ」とか言っておいて、「これは差別語ではないのだから何の問題もない」と言っても、恐らく大抵の人は納得しないであろうのと同じことです。

この点で、ジャッキー・チェンの映画「ラッシュアワー」(その2か3だったかもしれませんが)に印象的なシーンがありました。

先述の通り、「ニガー」(またはニガ)は黒人に対する蔑称であるわけですが、アメリカ黒人の中には、親しい黒人同士でこの名で呼び合う人々もいます。で、この映画ではジャッキーはアメリカの事情に不案内な外国人役で出てくるのですが、彼はアメリカ黒人の相方と一緒に、黒人がたむろするバーにやってきます。
そこで、相方はバーの店主に「よう、ニガー」と挨拶して向こうに行ってしまいます。これを見ていたジャッキーは、相方の真似をして、店主に「よう、ニガー」と言ってみます。すると店主は血相を変えて、

「今、なんて言った?」

ジャッキー「よう、ニガー」

店主「この野郎!!」

という感じで、怒った店主とそこで乱闘騒ぎになってしまいます。

このシーンは勘違いをネタにした笑えるシーンなわけですが、また同時に、「差別語」というのは、言う側と言われる側との背景しだいで変わってくるものだということを如実に表しているようにも思えます。

そういうわけですから、たとえ「シナ」がそれ自体では差別的な意味でないとしても、これを差別語ではないというのは無理があるだろうと私は思います。仮に差別語でなくなる日がくるとしても、それには長い時間がかかるでしょう。

次に、「中国という名前は中華思想に基づいた尊称だから、日本人が使うべきではない」という意見について言えば、そもそも「中国」という名前がいわゆる中華思想に基づいているという共通の認識があるわけではないと思います。
どこで言っていたか忘れましたが、陳舜臣氏もこの名前が中華思想に基づいているという意見に疑問を呈していました。

日本の中国地方も中国と呼びますが、この名前は尊称だから、他の地方に対する差別だという意見は聞いたことがありません。中国というのは単に地理的な意味であって、自分の住んでいるところを中心にして、そこから離れていくと周りに外国があるという感覚を表しているだけだと言うことだって出来るでしょう。(恐らく中国という言葉の初出である「書経」や、「列子」ではこのような使われ方がされているように思います)

また、たとえ「中国」という名前が中華思想に基づいていたとしても、その名を呼ぶことには別に問題はなかろうと思います。
なぜなら、国の名前が尊称であるのは中国に限ったことではないし、それをその名で呼んだとしても、その思想に賛同していることにはならないからです。

例えば、イランは「高貴な人々(アーリア人)の国」、スリランカは「聖なるランカ島」の意味ですが、それらをその名で呼んだとしても、「高貴な」とか「聖なる」とかの内容に賛同することにはなりません。(積極的に否定することにもなりませんが)

それは、ローマ教皇庁バチカン)をその名で呼んだとしても教皇権を認めることにはならず、グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国(イギリス)をその名で呼んだとしてもそれを「グレート」だと認めることにはならないのと同じです。
テロ組織でさえ、普通は自称で呼ばれますが、例えば「イラクの聖戦アル・カーイダ組織」をその名で呼んだとしても、彼らの活動を「聖戦」だと認めることにはなりません。この手の団体をすべて自称でなく他称で、独自に名前をつけて呼ぶとしたら収拾がつかなくなるでしょう。

また、「中国」に当たる名で中国を呼んでいるのは日本だけではなく、朝鮮やベトナム(伝統的に中国文化圏)もそうですし、他の国々が全て「シナ」に当たる名を使っているわけでもありません。(ロシアでは「キタイ」(契丹に由来)と呼ぶ)

それに、中国人以外の外国人も中国語を習って話す時には中国を中国と呼ぶわけですが、このような名前でこの国を呼ばされるのは中華思想に屈することで受け入れがたい、とクレームをつけたとか言う話は聞いたことがありません。たとえ「中国」が尊称だとしても、その程度の尊称だということでしょう。

また、中国を中国と呼ぶのは向こうの要求に屈してそうなったのだとも言われますが、相手国の要請で呼び方を変えたのは中国だけではなく、象牙海岸コートジボワールになったり、グルジアジョージアになった例があります。
またこのような要請を受け入れるのは日本だけではないようです。例えば、Wikipediaによると韓国の首都ソウルはかつては「漢城」と漢字表記しており、漢字表記がなくなったあとも、中国語圏(中国、台湾、香港)では「漢城」を中国語読みした名前が使われていたそうです。
しかし後になって、ソウル市長が「ソウル」の発音を漢字で音写したもの(首爾)を発表したので、それを受け入れて、現在の中国語圏ではその名を使っているそうです。

そういうわけですから、「中国という名前は尊称だから日本人は使うべきではない」という意見には私は賛成しません。


ついでに言うと、「シナという名前は戦前までは日本で普通に使われてきたし、当のシナでも使われてきたのではないか」という意見もあります。

先述のように、この「シナ」という言葉は始皇帝の「秦」に由来するもので、インドでも使われており、インドの仏典が漢訳(中国語訳)された時に「支那」と音写されたようです。(別の音写で「震丹」もあり)この漢訳仏典の影響で、日本や中国でも支那という名は知られ使われていたようですが、必ずしも広く知られていたわけでも、そればかりが使われていたわけでもないようです。

日本だと、その時々の王朝名の他に、漢、唐、またこれらの訓読みで「から」、支那、震旦、唐土(もろこし)などが使われていました。本居宣長平田篤胤は中国について批判的に述べていますが、彼らは漢(から)を使っています。
Wikipediaによると、「支那」が専ら使われるようになったのは明治以降とのことです。

また中国では、「シナ」という言葉はそれほど知名度が無かったようです。
明代(16世紀)に中国を訪れたポルトガルの宣教師の記述ではこうあります。

「読者に知っておいてもらいたいのは、このシナという名前はこの国(中国)の人民そのものの言葉ではなく、またこの国自身の名前でもないことである。一般的に言って、この国でこの名前を聞くことは全くない。
このシナという名前が通じるのは、マラッカ、シャム、ジャワなどの南方諸地方でのことである。また、我々(宣教師)と通交があるシナ人や、我々に交じって暮らしているシナ人の間ではこの名前が通じる。
この国の実際の名前はターメ(大明)であり、人々はタンジン(大明人)である。諸国で使われているシナという名前がどこからきているかはわからない…」(ガスパール・ダ・クルス、「十六世紀華南事物詩」)

また、同じく宣教師であったイタリア人の記述ではこうあります。
「この国はヨーロッパ人の間では様々な名前で知られてきた。(例として)シーナ、カタイオ、チーナ、ヒッポファーゴ、セリカ
私が一番驚いたのは、当のチーナ(中国)では、これらの名前が全く知られてもいず、それらを聞きもしないことである。彼らがこれらの名前を知らず、その名前の由来も知らないのは、彼らがこれまでにたびたび国名を変えてきたし、これからも変えるだろうからである。そのわけは、非常に古くからの習慣で、王朝がある一族から他の一族に切り替わると、一族の初代国王が意図的に美しく荘重な名前をつけるのが習わしだからである。(易姓革命)1236年に朱家が支配者となり、明るさを意味するミン(明)と名付けた。今でもこれが続いているので、大きいを意味するター(大)をつけてターミン(大明)と呼ぶ。…
この国は周りの国々ではそれぞれ違った名前で知られているが、私の意見では、それらは最初にそれらの国に伝わった名前なのであろう。コーチシナとシャムではチン(秦)と呼ばれ、ポルトガル人はこれに従った。日本人はタン(唐)と呼び、モンゴル系民族はハン(漢)と呼び、サラセン人はカタイ(契丹?)と呼ぶ。…
チーナの書物では、その時々の名前の他に、「中心にある王国」を意味するチュンクォ(中国)や「中央の庭」を意味するチュンホア(中華)とも呼ばれる。
チーナ全土を手に入れた王は全世界の君主と呼ばれるが、これは彼らがチーナを、他を圧して全世界を掌握していると考えるためである(いわゆる中華思想)このような考えは我々のうちのある者には奇妙に思えるとしても、考えてみれば、チーナ人からしたら、我々の古代の皇帝(ローマ皇帝?)がチーナの支配者でもないのに、その称号で呼ばれていることのほうが奇妙に思えるかもしれない…」(マッテオ・リッチ、「中国キリスト教布教史」)

こうした点からすると、中国人が、専ら外国人の呼び方であったシナよりは、中国のほうを好むとしても不思議ではなかろうと思います。(秦王朝自体も、中国では伝統的に評判が悪い)イランも、周りからはペルシャと呼ばれてきましたが、自称としてはイランを使っています。