empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

いわゆる中華思想

前回の記事を書いて改めて思ったことですが、いわゆる「中華思想」というのは、どこまでが事実なのかよくわからないところがあります。

私が初めて「中華思想」について聞いたのはもう10年くらい前だったように思います。
私が聞いたところでは、中華思想というのは中国の古来の考え方で、「自らを中華、中国などと尊称し、周りの異民族を東夷、南蛮、西戎北狄などと蔑称し、中国を世界一優れた国、文明とみなす自民族中心主義」といった解説がされていました。さらには、中国の覇権主義や、中国人のマナーの悪さなどはこれが根源になっているのだ、といったことも言われていたように思います。

私はこれを初めて聞いた時、「中国にそんな考え方があるとは知らなかった。中国にも、かつての帝国主義のような考え方があるのだな」といった風に思った覚えがあります。
で、実際に中国の古典などを読むようになった時、私は、中国古典の中ではさぞかしこの「中華思想」がいたるところに見られ、人々はこの思想に基づいて理論を立てているのだろうと思っていました。

ところが、実際に中国の古典を読んでみると、どこにも「中華思想」などという言葉は出てこないし、この思想を体系立って説明しているところもどこにもないのです。
確かに、いわゆる「中華思想」と呼ばれうるような部分はところどころ出てきますが、少なくともそれを体系立てて説明し、それに基づいて理論を展開しているようなものは、私の見た限りどこにもありませんでした。
それで私は、どうやらこの「中華思想」という言葉は、中国自体の言葉ではなく、中国に見られるいくつかの思想をまとめて、それを外国人が「中華思想」と名付けたものであるらしい、と気づいたわけです。

で、私が見た限りでは、いわゆる「中華思想」というのは、主に民族的な概念と、政治的な統治権の概念とをまとめてこう呼んでいるもののように思われます。

まず民族的な概念から言うと、中国の古典的な世界観では、自らを「中央」にある国とみなし、その周りの四方に異民族が住んでいる、といった観念を持っていたようです。それゆえに「中国」と言うわけなのでしょうが、前回の記事でも述べたように、この中国という名前が尊称であるかどうかははっきり言えません。少なくとも私の見た限りでは、中国古典の中でこの名を尊称だと解説しているところはなかったように思います。

一方、四方の異民族は先に述べたように東夷、南蛮、西戎北狄と呼ばれるようですが(四夷、夷狄、蛮夷のように、「夷」が使われることが多い。夷は日本語読みでは「えびす」(外国人)とも読む)、こちらもよく言われるように蔑称なのかどうかははっきりしません。恐らくこの名前の初出は「礼記」だと思われますが、そこでは以下のようになっています。

「中国の人をはじめ戎夷など五種の人々にはそれぞれの習俗があってこれを改めさせるのは難しい。東方の人を夷といい、散らし髪で身に入れ墨、中には火食しない者もある。…南方の人を蛮といい…西方の人を戎といい…北方の人を狄といい…五種の人々は互いにその座り方、食い物、着物、道具、武器などの類を異にし、言語は通じず、嗜好はさまざまである…」(礼記

この訳文がどれだけ原典に忠実なのかわかりませんが、これだけでは蔑称かどうかよくわかりません。あえて言えば「火食しない者もある」が侮蔑的だと言えるかも知れませんが、古典ではこうした言い方は普通のことだとも言えるでしょう。
孟子」の中では、「中国の文化で野蛮な異民族の風俗を変えたとは聞いたことがあるが、その逆は聞かない」とありますから、これは自民族中心主義だと言えそうですが、同じ「孟子」の中で、古代の伝説的な聖王である舜が「諸馮で生まれ…鳴条で亡くなった東夷の人」だと言われていますし、同じく模範的な君主とされた周文王も「西夷の人」とされています。また、「伯夷」「簡狄」「王戎」のように人名にも使われていますから、やはり蔑称かどうか疑問です。恐らく、もともとは蔑称ではなく、蔑称だとしても、そういう扱いになったのは後世のことなのではないかと思います。

次に政治的な統治権について言えば、「書経」や「史記」や諸子百家の文書などを読んでみますと、古代中国の帝王(天子)は、天からその統治権を授かり、限られた範囲である「国」を治めるというよりは、「天下」を治めると見なされていたようです。「天下」とは言葉通りにとらえれば天の下、つまり全世界の意味ですから、「王」(後には皇帝)は全世界の君主だということになります。これに対して、限られた範囲である国々は、天子の臣下である諸侯が治めることになっています。これが、いわゆる中華思想の主な要素となっているように思います。
「帝堯は…天の下の万国を和合させました」
「先帝の徳は広く四方のすみずみにまで及び…されば、上天の大神はみそなわして…天下の君主となるように命じられたのです」(書経

こうした考え方は、恐らく古代中国で、複数の都市国家の君主が共に戴いた君主が後の「王」になったことから来ていると思われますが、こうした考え方が後の中国諸王朝にも受け継がれたために、後の皇帝たちも、少なくとも名目上は「天下」を治める「天子」と呼ばれてきたわけです。前回引用したように、このことは明代に中国を訪れた宣教師も記録しています。
「チーナ(中国)全土を手に入れた王は全世界(天下?)の君主と呼ばれる…」(中国キリスト教布教史)
こうした考え方は、イランの「王書」(シャー・ナーメ)で、古代の帝王が単に「世の王」と呼ばれ、あたかも世界中の王であるかのように見なされていることと似ているようにも思います。

もっとも、こうした名目がどれだけまじめに受け取られていたかは疑問がなくもありません。すでに礼記に見られるように、四方の異民族にはそれぞれの従う習俗があって、彼らにまで天子の統治権が及んでいるわけではないことは自覚されているように思われるからです。もとより、その時代に生きている人なら、現実の統治権が世界中にまで及んでいるわけではないことはわかるでしょうから、こうした観念はあくまで観念にとどまっているようにも思えます。
「古代の天子が治めた地は千里四方にすぎず、その外は候服、夷服の地で、諸侯のある者は来朝し、ある者はそうせず、天子は彼らを制御することはできませんでした」(史記
漢高祖(漢の初代皇帝)は「大風の歌」の中で「四方の守りをいざ固めん」と歌っていますし、実際漢は異民族の匈奴との戦いに苦戦して、一時は匈奴に敗れて税金を払っていたようです。その後も中国は金、元、清などに敗れたり征服されたりしていますから、「天下」を治めると言うのは観念の上でのことだというのは当時の人々には明らかだったろうと思います。
論者の中には、中国がアヘン戦争に敗れたことで中華思想の「中国の優越」という建前が崩れたかのように言っている人もいますが、それ以前から何度も外国に敗れているわけですから、この考えは当たらないと思います。

もっとも、中国が外国に敗れたり征服されたりしてきたことと中華思想との間には、確かに関係があるだろうとは思います。というのも、中国がこのように外国に脅かされてきた(少なくとも脅かされていると思われてきた)ことが、中国の排他的な思想を育む一因になってきたように思われるからです。特に宋代あたりから中国は排他的になっているように思われます。この点で、中国はロシアと似ているようにも思います。(ロシアも、モンゴルや西欧の国々などに脅かされてきた歴史がある)もっとも、外敵に脅かされることで排他的で攻撃的になるというのは万国共通だと思いますが。

ところで、こうしたいわゆる中華思想は、主に儒教によって受け継がれてきたように思います。というのは、古代から始まって後世にまで生き残ってきた中国の思想は主に儒教道教ですが、道教はあまり政治思想と関わりを持たず、また儒教のように社会的な秩序や道徳的な秩序を定めることには否定的で、むしろ価値相対主義的な傾向があるように思われるからです。

これに対して、儒教は政治と深く関わっていますから、中華思想とも関わっています。それで、後世の中華思想儒教徳治主義とも結びついているようです。
中華思想では中国の文化が最高のものだとされる、と言われますが、その文化というのは中国語とか道教文化とかではなく、儒教的な「徳」ということが主に考えられているように思います。それだから、元や清のような異民族王朝が中国を征服しても、それは自らに徳があったから前の王朝に変わって天命を得たのだ、と言えたわけです。
儒教徳治主義は、孟子が言うように徳によって自らを治め、それを家庭に及ぼし、国に及ぼし、さらには天下に及ぼす、というようなもので、ある意味拡張主義的ではありますが、孟子が言うには、自分に徳があれば人々が自分から帰服してくるので、それによって天下の君になれる、といったものです。これは基本的に消極的な、待ちの姿勢であって、初期イスラム帝国のような積極的な征服活動とは違うものだと思われます。

中国の覇権主義とか中国人がルールを守らないこととかは中華思想のせいだというように言われることもありますが、私はそれについては懐疑的です。確かに覇権主義とかルールを守らないとかは問題ですが、それはいわゆる中華思想とはまた別の問題だと思います。私の印象では、こうした問題は中華思想云々より、中国における道徳の退廃が原因であるように思います。こうした中国の悪しき伝統については清末民国初の魯迅や譚嗣同も批判しています。譚嗣同はどうやら、こうした退廃は多くは道教のせいだと考えていたようです。
清末民国初には、中国の伝統を悪しき伝統として批判したり、逆にそれを擁護したりする人々がいたようですが、私の覚えている限り、「中華思想」について言及していた人はいなかったと思います。