empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

派閥と政策と私

私は基本的に原発の再稼働や増設には反対です。なぜなら、事故の危険性があるというだけではなく、テロや戦争の標的になる恐れがあるし、またそうしたことがなくても、稼働している限り何万年も残る放射性廃棄物を出し続け、それを管理するのは後世の人々だからです。

とはいえ、もちろん賛成する人々もいます。そして私の見たところ、いわゆる「保守派」(または右翼)と呼ばれる人々には賛成が多く、「革新派」(または左翼)と呼ばれる人々には反対が多いように思われます。
原発だけではなく他の政策についても、保守は改憲と安保法案に賛成で、天皇生前退位と選択的夫婦別姓には反対、革新はその逆、といった傾向があるようにも思えます。

もちろん、統計をとったわけではないので実際にその通りかはわかりませんが、原発について言えば、「保守政党だけど原発反対」という新党改革の党勢がさっぱり伸びないことや、「革新政党だけど原発賛成」という政党が(私の知る限り)ないところを見ると、やはりだいたいの保守派は原発賛成で、革新派は原発反対という傾向があるように思えます。

もちろん、人にはそれぞれの意見がありますから、それ自体は別に構わないのですが、こういう状況を見ると、余計なお世話かもしれませんが私はこんな心配をしてしまいます。
つまり、「人々は本当に、なぜ原発が必要/不必要なのかについて合理的な根拠を持っていて、自ら納得した上で賛成/反対しているのだろうか?ひょっとして、ただ「保守だから」「革新だから」というだけの理由で、派閥意識から賛成/反対しているだけなのではないか?」ということです。

そうでないのなら別にいいのですが、もしそうだとしたらこれは危ういことだと思います。
なぜなら、もしそうだとしたら、それは重要な政策についてよく考えもせずに決定を下しているということになるからです。
そして、もしその判断が誤っていた場合は、自分にも他の人々にも損害がおよび、また後世にまでそれがおよび、場合によってはそこから立ち直るのに何世代もかかるということもあり得るだろうからです。
私達の決定は必然的に、自分にも他の人々にも後世にも影響をおよぼすわけですから、特に重要な問題については、慎重に決定するべきだと思います。原発に限らず、他の政策でもそうですが。

また、もし単なる派閥意識から政策に賛成/反対するとしたら、そこには別の問題も起こってくるでしょう。つまり、もしそうなら、建設的な議論ができなくなるだろうということです。
例えば「原発放射性廃棄物が出るから反対」という人がいれば、将来放射性廃棄物が出なくなる、または安全に再利用できる技術ができた場合、その人は賛成にまわるかもしれません。
また、「日本の安全を守るためには安保法案が必要だと思うから賛成」という人がいれば、安全を守るために安保法案は必要なく、むしろそれによってリスクが高まる、というデータを見せられた場合、その人は反対にまわるかもしれません。
これらは話し合いで説得できる場合ですが、しかし、単に派閥意識から賛成/反対している場合、その人はその意見を変えるべき合理的な理由があってもそれを変えることがないでしょう。そうなれば、どうせ話し合っても無駄だということになり、結局は力ずくで押し通したもの勝ちだということになるでしょう。そうなれば、有意義な議論など行われなくなってしまいかねません。そして、そういうやり方が広がっていけば、社会全体が派閥によって分断され、排他的で攻撃的で不寛容な社会になってしまうでしょう。というか、すでに一部ではそうなっているように私には思われます。

さらに言えば、このようなやり方が広がっていけば、議論を深めることもなく、公平に多角的な視点から見て考えるということもなくなっていき、批判も受け付けず、数が多く力が強い人々の意見なら理不尽なものでもまかり通るということになり、こう言ってよければ、精神的に「退化」していくのではないかと思います。

もちろん、派閥だって無意味にあるわけではないでしょうから、派閥意識が無用の長物だとは思いません。しかし、政策についていえば、それは大まかなガイドラインくらいにしかならないのではないかと思います。つまり、「この人々は私と同じような考えの持ち主だから、だいたい私が正しいと思うことをやってくれるだろう」というようなものだと思います。
確かにそれは一つの判断材料ではありますが、もしそれしかないのだとしたら、それは危ういことだと思います。