empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

改憲について2

改憲というと9条ばかりが注目されがちな傾向があるように思えますが、安倍首相は「前文も含めて全て」変えたいと言っていますし、実際、現政権はそういう草案を作ってもいます。

私は、改憲自体は必ずしも否定しませんし、9条を一部変えてもいいと思っています。少なくとも今のところは。

しかしながら、自民党改憲草案には反対です。もしこの草案がそのまま通った場合、天賦人権説が否定され人権は社会の中で作られたものだとみなされ(11条、Q&Aも含む)、基本的人権が制限され(12条)、今より個人が尊重されなくなり(13条)、宗教団体の政治上の権力の行使への道を開き(20条)、言論、表現の自由が制限され(21条)、思想良心の自由は自明のものとして侵してはならないとされるのではなく国が「保証」するものとされ(19条)、従来の立憲主義を否定して権力側だけでなく国民にも憲法尊重義務が課される(102条)といったことになりえます。他にも身体拘束への制限が弱まっていることや現行97条が削除されていることなどいろいろ問題はありますが、要するに、より全体主義に近づくものだと私には思われます。

私は、9条よりもこちらのほうがよっぽど大きな問題だと思いますし、このことはもっと騒がれてもおかしくないと思うのですが、どういうわけかあまり話題にもなっていないようです。それどころか日経新聞によると、このような改憲を進めるつもりの現内閣への支持率は60%を超えているそうです。

一体、人々は人権を制限されたがっているのか、全体主義が好きなのか、それともあまり考えもせずに支持しているのかと思ってしまいます。

繰り返しになりますが、私は改憲自体は否定しません。私は今のところ集団的自衛権の行使には反対ではありませんので、それを行使できるように9条を一部変えてもいいとは思っています。(それでも慎重にするべきだとは思いますが)
恐らく、日本で改憲の話が持ち上がってきたのは、9条に対して賛否両論あることが大きいだろうと私は思いますし、これが人々の原動力になっているのかもしれないと思います。

しかしながら、それに合わせて、前文を含めて全てを変えてしまうというのは、いわばどさくさに紛れて自らの理想を押し付けるようなもので、それこそ現政権による押し付け憲法だとさえ思います。

小泉元首相は、東京新聞によると「変えるなら9条で、それ以外を変えるのは意味がない」と言っていたそうですが、私もだいたい同じように思っています。9条についてなら賛否両論ありますし、9条だけを問題にして改憲を議論すれば、議論もしやすく、国民の理解も得られて、もっと早く改憲も進むだろうと思うのですが、現政権は草案を事実上封印しながらも撤回はせず、いわば隠しながら改憲の機会をうかがっているような感があります。
もし草案がなんのやましいところもなく、国のために必要だと思うなら、もっと正面にかかげて議論するべきだと思いますし、そうでないなら、それはやはり自らやましいと思っているからではないかと思います。

たとえ憲法は時代に合わせて変わるとしても、自由、平等、幸福追求権のような基本的人権は侵されてはならないと私は思います。なぜなら、国が存在しているのは公共の福祉のためであって、その公共の福祉は一人一人の人権によって成り立っていると思うからです。
現政権はQ&Aの中で、天賦人権説はキリスト教文化圏のものだ、しかし日本はキリスト教圏ではないからこれは改める必要があるなどと偏見を述べていますが(彼らは日本人のキリスト教徒についてはどう思っているんですかね…)


私は天賦人権説はどんな文化圏だろうと受け入れられるべき普遍的な原理だと思います。なぜなら、自由、平等、幸福追求権などは、特定の信仰によっているのではなく、人間性によっているからです。確かモンテスキューも言っていましたが、こういう性質は、特定の信仰の信者に想定されているものではなく、「自然状態」の人間に想定されているもので、そこから「天賦」ということが逆算されているからです。
もし天賦人権説が彼らのいわゆる「キリスト教圏」に特有のものなのだとしたら、(そもそもキリスト教圏にしたって、こういう人権思想が発達したのはその中の一部である西欧においてなわけですが、彼らは東欧や中東やアフリカのキリスト教徒の存在を知らないんでしょうか?)それ以外の文化圏、たとえば中国や北朝鮮やISISの領域内で人権侵害が行われている場合、彼らは何を根拠にしてその人権侵害を非難するつもりなのでしょうか?もし人権が天賦のものだとしたら他人や社会がそれを侵害することを非難できますが、社会の中で作られたものだとしたら、また社会の都合で捨てたり制限したりできるものにもなるでしょう。自民党改憲草案は、こういう考え方が根底にあるように思われます。

私は、日本は今後とも自由、平等、幸福追求権などの基本的人権が天賦のものとして認められ尊重される国であってほしいと思います。そうであってこそ、私は中国や北朝鮮をではなく、この国をこそ愛し、守るべきだと思えるはずだからです。というのは、もし仮に日本が北朝鮮のように人権の認められない国で、逆に北朝鮮のほうが日本のように人権の認められる国であったとしたら、私はそんな日本は捨てて、できることなら北朝鮮に亡命したいと思うだろうからです。そしてこのことは、「愛国心」とは別のことです。というのは、愛国心と政権に対する支持とは別のことだからです。どんなに日本の歴史や文化を愛していたとしても、もしそのような状況なら、歴史や文化とは関係なくそのような政権は倒されるべきだと思うはずですから。