empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

改憲について3

以前の記事でも書きましたが、私は改憲は否定しませんが自民党改憲案には反対です。
この改憲案の根本的な問題は、これが天賦人権説を否定し、人権を事実上国から与えられたものとしている点だと思います。

天賦人権説とは要するに人は人権を他人から与えられたのではなく、生まれつき持っていると見なすことですが、改憲案は11条(Q&Aも含む)でこの説をはっきり否定しています。そして実際、自由や人権を「妨げられない」「侵されない」などの、人権を人が初めから持っていると見なしうるような部分を修正しています。(11条、19条、22条)そして人権は「社会の中で作られたもの」だとしていますが、この改憲案の諸々の条文と考え合わせれば、事実上、人権は国から与えられたものだと見なしていると言っていいでしょう。

もし人権が国から与えられたものだとしたら、また国の都合で制限できるものともなるでしょう。だからこそこの改憲案では、今より個人が尊重されず(13条)、基本的人権が制限され(12条)、表現の自由が制限され(21条)、いかなる奴隷的拘束も受けないという権利も後退し(18条)、拷問及び残虐な刑罰の禁止が弱まり(36条)、結婚は両性(つまり結婚する当事者)の合意のみには基づかなくなっている(24条)わけです。またこの改憲案では、新たに政党の活動についての条文も設けられていますが、(64条の2)そこでは国は政党の活動の「公正の確保及びその健全な発展に努めなければならない」とされています。これは政党の活動を国が管理統制する根拠ともなり得るでしょう。そしてこの改憲案では、国民全てがこれらの条文を尊重しなければならないとされています(102条)。

従来の立憲主義では憲法は国家権力を制限するものとされると言いますが、この改憲案は逆に、国家が国民の権利を制限するためのものと言ってもいいでしょう。これはこの改憲案が天賦人権説を否定して、いわば国賦人権説をとっていることからの帰結だと私は思います。

しかし実際、人権とは人間同士の取り決めではないのか、という意見があるかもしれません。現政権もそう考えているらしく、11条のQ&Aでは天賦人権説は西欧のもの、キリスト教信仰に基づくもので、日本には合わないと言いがかりをつけています。(日本人のキリスト教徒の立場はどうなるのでしょうか)

しかしながら、天賦人権説は別に特定の信仰に基づいているわけではありません。

そもそも人間同士の取り決めであったとしても、それならそれはやはり人に由来しているわけです。そして人は自然(あるいは神)に由来しているわけで、これを漢語で言えば天賦のものだということになります。
人は国がなくても存在し得ますが、国はそれを構成する人がなくては存在し得ません。ですから国は人に基づいていると言えるわけです。

確かモンテスキューも同じことを言っていましたが、人はもし国がなく自分独りで生きているとしたら、彼は自由であり、自由に自分の幸福を追求し、またその限りで他の人との差別はなく平等だと言えます。つまり自由、平等、幸福追求権といった「人権」を持っています。そして人がこのような性質を持っているのは自然(あるいは神)によるものであり、漢語で言えば天賦の人権を持っているわけです。

そして、独りで生きるのではなく共同体、つまり国を作って生きるとしても、なぜそうするのかと言えば、それはそうした方が良いと思われるからこそそうするのだと言えるわけです。なぜなら、人の行動は常にそうした方が良いと思われることを行うものだからです。つまり、そのような生き方は幸福追求権の一部だと見なしうるわけです。
一般的に言っても、人は共同体で生きた方が自分及び子孫の生存にも有利ですし、また快適にも生きられます。ですから人にとっては国を作って生きることは自然なことではありますが、しかし必然ではありません。そのことは、一部の人々があえて世間から離れて、隠者として独りで生きることがあることからもわかります。
もちろん、人は共同体で生きていればそれだけ義務を負うことになり、それだけ拘束されることにもなりますが、それでも人があえてその共同体を捨てようとしない限りは、人はその負担に見合うだけの福利を求めてその共同体に加わっているのだと言えるわけです。つまり人々はいわゆる「公共の福祉」のために国を作って生きており、国が自分達の福利のためになってくれることを見越しているからこそ、それに加わっているのだと言えます。つまり、国は国民の信託によって成り立っていると言えるわけです。

このことは現憲法の前文にも書かれています。つまりそこには、国政は国民の信託によるものであり、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表が行使し、その福利は国民が享受する。これは人類普遍の原理であり、この原理に反する憲法、法令、詔勅を排除する、と書かれています。つまり、「国民主権」とはどういうことか、前文で説明しているわけです。
これに対して、自民党改憲案の前文は「国民主権」だとは言っているものの、なぜ、どのように国民主権なのかという説明はなく、その原理に反する命令を排除するとも言っていません。その代わりに、日本は長い歴史と独自の文化を持っているとか、今や国際社会の中で重要な地位を占めているとか、(今後地位が下がったらどうするつもりなんでしょうか)誇りと気概を持って国と郷土を守る云々とかいうことが言われています。

日本が長い歴史と独自の文化を持っているというのは、それはそれで結構なことではありますが、このような文章が観光案内のパンフレットにではなく、「憲法に」書かれるということの意味を私達は考えるべきでしょう。
私の考えでは、こうした文章は、国民ではなく国家を権威づけ、国民に国家を尊重する義務を負わせるために書かれたものだと思います。(ついでに言えば、改憲案では3条で国民に国旗、国歌を尊重する義務を負わせています)現憲法の前文が「国民」が主語になっているのに対して、改憲案では「国」が主語になっています。この改憲案の他の条文と考え合わせてみれば、この改憲案は要するに「人々の福祉のために国家がある」のではなく、「国家の福祉のために人々がいる」という考えに基づいていると言っていいでしょう。つまり、現憲法がよって立つ、即ち現在の日本がよって立つ価値観を根底から覆すものであるわけです。(ついでに言えば、日本が長い歴史と独自の文化を持っていると憲法で定めれば、これに反するような学説(日本の文化は他の文化と類似しているのではないか等)が憲法違反ともなり得るでしょう)

しかし、これほどの国家の権威は一体何に由来しているのでしょうか?国はそれを構成する人々がなければ成り立たないわけですから、人に由来しているのでしょうか?多分そうでしょう。何せ一応は国民主権を謳っているわけですから。
しかしもしそうであれば、なぜ人は自分に由来する国家によって人権を制限されなければならないのでしょうか。人権を越えるこのような国権はどこから来るのでしょうか。この改憲案は天賦人権説ならぬ、天賦国権説にでも立っているのでしょうか。
もしそうであるなら、国家が人を通してではなく、直接天から国権を授かっていると言える合理的な根拠を示すべきでしょう。もしそのような根拠がないなら、なぜ人はそのような国権に従わなければならないのでしょうか。それとも合意できなくてもとにかく従えと言うのでしょうか。もしそうなら、私達は国民というより奴隷だということになるでしょう。

国家が人々のため、公共の福祉のために存在しているという考えは、近代になってできたもののように思われるかもしれませんが、古代ギリシャにもありましたし、古代中国にもありました。また日本にもありました。即ち、日本書紀継体天皇紀には「天は人民を生み成し、人々の間に君主を立てて、その本性を全うさせる」とあり、仁徳天皇紀には、「天が君主を立てるのは人民のためなのだ。だから君主は人民を第一とするのである」とあります。また神武天皇紀には、「いやしくも人民に利益あることならば、何が聖の業の妨げになろう」とあります。
こうした思想は古代中国から取り入れたものだと思われるかもしれませんが、公式の歴史書である日本書紀にこう書かれているということは、こうした思想が日本においても受け入れられていたということです。太平記でも、君主には君主なりの務めがあるという考えから、天皇も含む権力者が批判されています。つまり天賦人権説は、日本の伝統にも反しないものだと言えるわけです。またたとえ反していたとしても、道理にかなうものならば受け入れるべきでしょう。五箇条の御誓文でも、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし(悪い習慣を捨てて、普遍的な道理に基づくべし)」と言われています。

現政権は、人権についての規定が変わっても人権が大きく制約されることはないと言います。どれだけ信用できるかわかりませんが、確かに、彼らにはそこまでするつもりはないのかもしれません。しかし、たとえ彼らにそのつもりがなくとも、憲法の条文がそれを許すようなものであれば、今でなくとも、後の時代に制約されることがありえます。大日本帝国憲法のもとでも、自由な風潮の時代はありましたが、結局は治安維持法国家総動員法の制定などで、人々の自由は大きく制限されることになりました。大日本帝国憲法を作った人々はそのような事態を想定していなかったかもしれませんが、憲法の内容がそれを許すようなものであったわけです。