empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

河野談話と慰安婦問題について

かつて第二次安倍政権の初期のころに、安倍政権が河野談話を見直すかもしれないと言う話が出たことがありました。
しかし、結局安倍政権は河野談話を見直さなかったわけですが、私はこの慰安婦問題について、それまでろくに調べても来なかったので、何が問題になっているのか、河野談話は事実にもとづいているのか否かといったことがよく分からないままでした。

しかしさすがにこれについて知らないままではまずいだろうということで、まず河野談話について調べようと思い立ちました。
で、この河野談話については、ネット上などで、この談話を作る際、元慰安婦とされる人々にインタビューをしたが、彼らの証言が事実かどうかの裏付け調査が行われなかった、という話が出ていました。
また、河野談話は韓国政府と日本政府との水面下の交渉の末、作られたものであるとも言われていました。

私はこの点について調べようと思い、まず元慰安婦のインタビューについて、果たして河野談話はこの裏付け調査の行われていないというインタビューを元にして作られたのかどうかを調べ始めました。ところが、ネット上をいくら探してみても、「裏付け調査が行われなかった」という話と、「この談話のために日本は苦労してきた」という話ばかりは延々と出てくるものの、「河野談話自体がそのインタビューを元にして作られたのか否か」は誰も述べていません。当時こうした調べ物によく使っていたWikipediaを読んでも、「裏付け調査が行われなかった」ということと、その後の各国の反応が延々と出てくるだけで、「そのインタビューにもとづいて書かれたのか否か」については頑なに述べようとしません。私は「で、結局この河野談話は信用できるのか?できないのか?」と、肝心なところがどこにも書かれていないのに苛立ちました。

そしてあちこち探し回った末に、私は外務省のホームページで、この問題について書かれた文書が公表されているのを見つけました。普通に考えれば、これは政府の問題なのだから最初から政府のページを見ればよかったのですが、当時の私はそういう発想が抜けていたのでした。

で、外務省のページで公表されている「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯〜河野談話作成からアジア女性基金まで〜」という文書を読んで、ようやく私はこの件について納得できる話を聞けました。

この文書により、河野談話は日本政府が独自に行った公文書などの調査にもとづいて作られたこと、例のインタビューは調査がほぼ終わった後で、日本側の誠意を示す意味合いで行われた一種の儀礼的な行為だったこと、韓国政府と日本政府との水面下での交渉は、日本側がそれまで行ってきた調査をふまえた上で「事実関係を歪めない範囲で」行われた文言の調整(つまり、言い回しの調整。「意向」を「要請」にするなど)だったこと、などを知ることができました。
また、この談話は草案の段階でも、慰安所の設置が軍の意向によるものであったこと、慰安婦の募集は軍の意向を受けた業者が主としてこれにあたったこと、慰安婦は本人の意思に反して集められた事例が数多くあったこと、日本政府は「心身にいやしがたい傷を負われた方々」にお詫び申し上げることなどが含まれているものの、日本政府は(少なくともこの談話が作られた時点では)「いわゆる強制連行」(軍による直接の連行?)があったと認めたわけではないことをも知ることができました。

こうしたことと、安倍政権が河野談話を見直すと言われながらも結局見直さなかったことからすれば、少なくとも政府は河野談話を事実として認めていると言えるでしょう。そういうわけですから、私もそれは事実だと思います。

またこの関係で外務省の別の資料を見て、慰安婦は朝鮮のみならず、日本本土、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダからも来ていたことを知りました。また「日本を別にすれば」朝鮮の出身者が最も多いとされていることから、実は慰安婦は日本人が最も多かったようです。
また、こうした戦時中の問題の「賠償」については、韓国との間では、過去に結ばれた「韓国との請求権、経済協力協定」にもとづき「解決済み」とする立場を(私が調べた時点では)日本政府はとっていることをも知りました。

で、結局私としては、河野談話は事実としてよかろうと思います。しかしながら賠償については、新たにお金を払う必要はなかろうとも思います。これらの理由はすでに述べた通りです。

こうしたことが分かって私はすっきりしましたが、改めてインターネット上を見てみると、この外務省の文書については一応それに基づいた報道はされているようでした。しかし、それに対する人々のネット上の反応は実に興味深いものでした。というのも、ある人々はこれを元にして「この件で、かえって河野談話の正しさが明らかになった」としているのに対して、別の人々は「河野談話は韓国政府との水面下での交渉でできたものであることが明らかになったのだから、すぐに破棄されるべきだ」と述べていたからです。人々は思想的立場しだいで、同じ情報に接しても全く違った反応を示すものだな、と思った次第でした。
私としては、だいたい前者と同じ意見、つまり河野談話は事実としてよかろうという意見です。繰り返しになりますが、私は別に日本が新たに賠償金を払うべきだとか、現代の日本人が過去の日本人の行為に責任を負うべきだとか言うわけではありません。ただ、過去に起こった事実だと認められていることについては、私もまたそれを認めるというだけです。

それはともかく、この慰安婦問題については、2015年の末に、日本政府が新たに10億円を出して、韓国政府との間で最終的に解決するとした条約を結んだようです。しかしその後の韓国政府内部での政変(朴槿恵大統領の不正疑惑と辞任への流れ)と、市民団体(少女像を設置した)と日本政府との軋轢のために、早くもこの合意が崩れ始め、また問題が再燃しているようです。

私としては、日本政府は新たに10億円を払う必要はなかったと思います。むしろ、これまで解決済みとする立場を取ってきたことを思えば、むしろ払うべきではなかったとさえ思います。というのは、こうして過去の条約をないがしろにするかのような前例を作れば他の条約にも懸念が出てくるし、もし特に韓国に対してのみお金を払うとすれば、その他の元慰安婦に対しては払わなくていいのか、ということになるからです。
私としては、もし日本側がこの問題に対して誠実に対応してきていれば、この問題はこれほど悪化せず、新たにお金を払うというような問題にはならなかっただろうと思います。それでも相手は何か要求してくるかもしれませんが、それは過去の条約などにもとづいて、受け入れるべきものは受け入れ、受け入れるべからざるものは受け入れなければよいだろうと思います。

すでに述べたように、私は新たに賠償金を払うべきだとは思いません。謝罪はするべきかどうかわかりませんが、直接の加害者でなければ、謝罪する「義務」はないだろうと思います。少なくとも、個々人は。
しかし、たとえ謝罪はしなくとも、「反省」はするべきだと思います。なぜなら、謝罪は主に相手のために行われることですが、反省は主に自分のために行われることだからです。
そのためにはまず過去にあった事実を認め、その過ちを繰り返さないようにするべきと思います。それがつまり反省であろうと思います。その上で、相手の要求については、受け入れるべきは受け入れ、受け入れるべからずは受け入れないという立場をとるべきと思います。

これに対して、反省はしないけど謝罪はする、というやり方は、何もしないより悪いことだと思います。なぜなら、それは「謝る必要はないけど、とりあえず相手をいなすために謝っておく」という態度だからです。
このような態度では、向こう側は馬鹿にされたと思って怒り、こちら側は必要もないのに謝らされたと思って怒り、どちらとも不満をためることになるでしょう。今の日本側がとっている対応は、まさにこういう対応で、とてもまずい対応であると、私には思われます。

余談ですが、この件ではネット上の情報というのは当てにならないものだな、ということも改めて思いました。Wikipediaも、編集方針などを読むと方針は誠実なものと思われますが、誰でも編集できるという性質上、時には恣意的な編集がされている場合があります。
例えば、昔私はWikipediaで仏教の「四諦」について見たことがありました。で、最初見たときはこの「四諦」の「諦」とは「諦める、断念する」という意味ではなくて「真理」の意味であるとありました。仏教の他の用語(真諦とか勝義諦とか)を鑑みればこの説明は妥当と思われますが、後で別の時にこれを見ると「諦める、断念する」の意味で説明されていたことがありました。そしてしばらく後で見ると、また元に戻っていました。
また、かつてWikipediaでは、慰安婦問題で日本の対応を非難したアメリカの日系人議員が「在日コリアンである」と根拠もなく書かれていたことがあったようです。(その後この記述は削除されたとか)Wikipediaは出典つきだからと安心せずに、出典にもとづかない、あるいはもとづいていても恣意的な文面になっていないかどうかも確かめなくてはならないようです。