empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

歴史修正主義について思うこと

政治の分野で歴史修正主義と言えば、自分の都合の良いように歴史を作り換えることを言います。もともとは、「ナチスによるホロコーストは無かった。ユダヤ人によるでっち上げだ」といったような言説をこう呼んできたようです。日本で言えば、「慰安婦は無かった。南京事件(南京大虐殺)は無かった。日本を貶めるためのでっち上げだ」と言ったものがそれだと言えるでしょう。
もちろん、歴史は新たな資料が見つかれば定説が変わるということはありますが、これらの事件については、犠牲者の数や軍の関与の程度などには異論があるものの、当事者同士(日本と周囲の国々)が共に事実として公式に認めていることであり、公共の事実として確定していると言ってもいいでしょう。

そういうわけですから、私もこれらは事実だと思っています。一応言っておけば、私は別に日本がこれらについて新たに賠償するべきだとか、直接の加害者ではない一般の日本人がその責めを負わなければならないとか言っているわけではありません。ただ、公に事実として認められていることについては、私もまたそれを認めるということです。

ところで、こうした歴史を否定して、とにかく過去の日本は正しかったと主張している人々は、なぜそこまでして過去の日本を正当化しようとするのか?という疑問があります。日本に限らず、歴史を都合の良いように修正しようとする人々は、なぜそのようにするのでしょうか?

まず大前提として、自分にとって都合が良かろうと悪かろうと、事実は事実として受け止めるべきだと言えるでしょう。その上で、なぜ人々は都合の良い歴史を望むのかと言えば、次のようになるでしょう。
まず政府について言えば、政府が後ろ暗い過去を認めたがらない場合は、それを認めることによって賠償などの責任を負わされたくないからだと言えるでしょう。
しかしながら、賠償責任がないような歴史に対しても、やはりある人々は修正したがります。この場合は、より精神的な理由があるように思えます。

私の考えでは、こうした人々は国に対して、あまりに自分の心の深いところを預けすぎているように思えます。たとえば過去の日本に深く深くシンパシーを感じて、日本と自己とが一体不可分になっているような精神状態の人は、日本を非難された時にあたかも自分自身が非難されているかのように感じて傷つき、だからこそそれに対して反撃しようとするのではないかと思います。

さらに言えば、ここには単なるシンパシー以上のものがあるようにも思えます。

というのは、宗教においては、その宗教の創始者やその宗教の重要人物が神聖視され、彼らの生涯には過ちや汚れがなく、完全無欠であったとみなされる場合が多くあります。そして、彼らに過ちや汚れがあったと言われたり、彼らの人格が非難されると強い反発が返ってくる場合が多くあります。
私は、宗教の場合にこういうことがあるのは自然なことだと思いますし、ある程度は仕方ないことだとも思います。なぜなら、彼らはその信者にとってはただの地上の人ではなく、なんらかの神聖さを帯びた超自然的な存在だからです。

しかしながら、これが宗教ではなく政治に適用された場合、つまり国やその指導者が神聖視された場合は、それは危ういことだと思います。なぜなら、天上の事柄はこの世の転変にもかかわらず常に完全無欠さを保っていられるでしょうが、現実の政治は転変常ならぬこの世で行われていることであり、そこにはいつでも過ちや汚れがあり得るし、また過去にもあっただろうからです。にもかかわらず、そこには何の過ちも汚れもないと強弁すれば、それはつまり、自分の願望に合わせて現実をねじ曲げることになるでしょう。

私には、歴史修正主義にはこのような思想が背景にあるように思われます。つまり、そこでは政治と宗教が一体になっている、あるいはむしろ政治が宗教を兼ねているようにさえ思えます。このことは、「ポスト真実」と言われるような、客観的な事実より個人的な願望や個人的な信念が重視される風潮に現れているように思います。また、この手の政治思想の典型であるナチズムが一種のカルト宗教的な思想であり、また現代のナショナリズムに、ナチズムとの共通点が見出されることもこの傍証になっているように思えます。(自国、自民族の優越性と、自分達を虐げる「敵」を想定して敵との戦いを煽る、自分達の伝統性と一体性の強調など)

こうしたことが起こる背景には、現代において人々の信仰心が失われていると言われることも関係しているのかもしれません。つまり、もはや神を信じられなくなった人々が、その代わりに国を信じるようになっているのかもしれません。

しかしながら、そのような信心は恐らく粗悪な代替物にしかならないでしょう。かつての共産主義諸国ではこのような信心が行われていたように思えますが、それは結局は現実を歪め、現実に対処しきれなくなって破綻したように思います。
しかもこのような宗教は、一見脱宗教しているかのように見えるせいで余計に厄介なものであるとさえ思います。つまり、旧東側諸国は一見脱宗教しているかに見えて、実は政教一致の体制だったのだと思います。というのは、無神論という特定の思想を前提にして、それに従うことを強要していたからです。私としては、もし旧東側諸国で政教分離がなされていれば、共産主義はもっとうまく機能したのではないかと思います。

現代の歴史修正主義においてもやはりそのような政教一致の思想が働いているのだとしたら、それは現実的な政治を妨げるものになりかねない危ういことだと思います。

私は、宗教心は人間の精神の基本的な要素の一つであって、それがなくなることはないだろうと思います。しかしだからこそ、自らの信心をどこに預けるかには慎重であるべきだと思います。下手なところに預ければ、信心を利用して操られ、狂わされることにもなるでしょう。自分では脱宗教しているつもりでその実は国を信仰し、結局は政治も宗教も共に破綻することになれば、それは不幸なことでしょう。