empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

なぜ政教分離は必要か

政教分離原則は近代国家では基本の要素ですが、そもそもなぜ政教分離は必要なのでしょうか?
中には、政教分離はただ異なる宗教間の対立を調停するものとしてのみ理解する向きもあるかもしれません。確かにそれも大事でしょうが、それでは国民の全て、あるいはほとんどが同じ宗教を奉じていれば政教分離は必要ないのでしょうか?そうではないと思います。

私としては、政教分離が必要なのは、宗教間の対立よりもっと根本的な問題として、宗教に特有の領域では「客観的に証明できないこと」が基本になっているからだと思います。

例えば、一般にキリスト教では三位一体論が正当信仰とみなされており、キリスト教徒であるならば、この正当信仰を奉じることが救いに必要だと考えられてきました。三位一体論とは大ざっぱに言えば神は三つであると共に一つでもあるという教理で、これは普通に考えれば矛盾律に反しているのであり得ないことですが、一般にこれは「人間の理性を超えた神秘」だとされているようです。
さて、もし「神は三位一体である」ということが客観的に証明できる事実であるとしたら、国がそれを奉じるように国民に義務付けたとしても、なんら不当なことをしていることにはならないでしょう。なぜなら、国が行うのは公共の事業なのであって、その政策は客観的に証明できること、公共の事実として認められることにもとづいているべきだからです。
客観的なこととはつまり万人に共通のことなのであって、だからこそそれにもとづいて、人々に対して義務付けたり禁止したりできるわけです。例えば4足す3が7であることや、三角形の内角の和が180度であることは客観的に証明できることですから、国の政策がそれにもとづいているとしてもなんら不当なことではないでしょう。
こうした、4足す3が7であることや三角形の内角の和が180度であることなどはまた「合理的」なことでもあります。理性は人々に共通のものであって、数学の公式などは誰にとっても同じようにあてはまります。だからこそそれを公式として教えることができるわけです。
よく何らかのサービスを受けるときの利用規約に、免責事項として「その他合理的な理由があったとき…」などと言われますが、ここでわざわざ「合理的」ということが言われるのは、合理性が人々に共通の基盤であるからでしょう。

しかし、神が三位一体であるとか、それに類するようなことは、客観的に証明できることではありません。なぜなら、一般にキリスト教においてもそうだと認められているように、これは「人間の理性を超えた神秘」なのであって、合理的に、つまり客観的に証明できることではないからです。
ですから、この教理が正しいということは証明できないのですが、しかしまたそれが間違いだと証明できるわけでもありません。なぜなら、それはこの世の事柄ではなく、人の理性を超える領域のことであって、客観的に確かめることができないからです。したがってこうしたことは証明も反証もできず、ただ、信じるか信じないか、という問題になります。
そしてもちろん、これは単にキリスト教だけの問題ではありません。神や来世のような、この世ならぬ事柄については、常に「人の理性の限界を超えた領域」というものを想定することができるからです。

イスラム教やユダヤ教では三位一体論は否定されており、神はあくまでも単純に唯一なのだとみなされます。人によってはこちらのほうがより合理的で正しいと思えるかもしれませんが、神の側には人間の理性に合っていなければならないという必然性はないので、合理的だから正しいとは限りません。この世に現れている現象については、それは合理的なものとして現れてきますが、神がそうであるかどうかは分かりません。
来世についても同じようなことが言えます。天国や地獄はあるかもしれませんし、ないかもしれません。人生は一度きりかもしれませんし、次々に生まれ変わる(輪廻)のかもしれません。あるいは来世など無く、死ねば土に帰るだけかもしれません。カントが言うように、こうした人の理性を超える事柄については証明も反証もできず、ただ信じるか信じないかがあるだけです。そしてこうした、神や来世のような「客観的に証明できないこと」が、宗教に固有の領域であるわけです。
これは仏教のような比較的合理的な宗教でも同じことです。というのは、いかに合理的に神や来世について計算したとしても、そこにはなお人の知り得ないような神秘的な要素がひそんでいて、そのために計算が狂うかもしれないからです。ブッダが「毒矢の例え」で形而上の事柄をあえて説こうとしなかったのもそのためかもしれません。

そういうわけですから、宗教は客観的に証明することができず、ただ信じるか信じないかがあるだけです。そしてそれだからこそ、国はそれを公共の事業とするべきではないのだと思います。というのは、もし為政者が、ある宗教が正しく、それを実践することで救われる、という信条にもとづいて政治をおこなった場合、もしそれが正しくなかったら、為政者はその責任をとれるのでしょうか?いや、誰もそのような責任はとれないでしょう。むしろ人はそれぞれ己の責任で何を信じるか決めるべきだと、私は思います。
そして、国は公共の事業を行うわけですから、公共の事実、つまり客観的に証明できる合理的なことにもとづいて政治を行うべきだと思います。

政教分離はこの必要から要求されることだと思います。しかしそれは、政府が無神論の立場に立つという意味ではありません。というのは、無神論というのは「神」という証明も反証もできないものを「無い」と断定する思想であって、やはり一つの信条だからです。ソ連などの旧東側諸国ではこのような信条に立っていたので、それは非宗教的に見えて、実は政教一致の体制だったのだと思います。
むしろ政教分離は信条を特定しない立場であって、不可知論に近いものだと思います。

人によっては、このような政教分離体制を不信心者による体制だとみなして非難することがあるかもしれません。しかし私としては、この体制は人間の理性の限界を認めてあえて引き下がるという立場であって、むしろより敬虔な体制だとさえ思います。この体制では何が神についての真理であるかを公式に断定しようとはせず、それについては神の決定にゆだねているわけですから。