empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

過労死レベルが基準の残業規制

あゝ労働者よ君を泣く
君死にたまうことなかれ
末で働く君なれば
人は情けをかけもせず
過重労働押しつけて
死ぬまでやれと教えしや
仕事のために死ねよとて
過労死までを認めしや

残業規制で、一ヶ月は100時間、2〜6ヶ月は80時間の残業を上限とするということになったそうですが、80時間はすでに過労死認定レベルだそうですね。
これは今まで規制がなかったところに規制を設けたのだから、それでも改善されたほうなんだという話も聞きますが、それでも過労死レベルが基準か…と思うとやるせないです。

思うに、日本ではそういう過重労働が当たり前で、それを前提にして社会が成り立っている部分があるので、いざ規制を設けるにしても、(少なくとも)初めのうちはこの程度の規制しかかけられないのだろうと思います。

日本の労働状況がそんな具合なのは色々な理由があるでしょうが、その一つとして、思想的な理由があるのではないかと思います。

かつての日本軍は特攻やバンザイ攻撃や、捕虜になるのを許さず自決を強いられるといった、命を軽んじるような傾向があったと言います。
そして戦後は、戦争で死にこそしないものの、仕事で過労死するということが起こっています。
かつて人々はお国のために命を捧げて死んでいき、後には会社のために命を捧げて死んでいくわけです。野球なんかにもそんな傾向があるように思えますが、日本には「国や会社のような組織のために死ぬこと、特定のスポーツや芸能のために命をかけること」を尊ぶような、そんな精神が根付いているように思えます。戦後の日本では戦争で死にこそしないものの、根本的な精神性が変わっていないのではないかと思ったりもします。

確かに、何かのために命をかけるというのは尊いことだと思います。しかしそれは自主的にそうするから尊いのであって、強いられるのでは間接的な殺人と同じだと思います。

昔、私はアメリカの小説を読んでいて、主人公が「普通の生活をしよう。朝8時(9時?)から5時まで働く、普通の人生を送るんだ」と言っているのを読んで、ため息をつきたくなった覚えがあります。
もちろん、アメリカの労働時間が比較的短いからといって、アメリカ人は何にも命をかけないというわけではないでしょう。キング牧師も「何かのために死ぬのなら、またそれのために生きてもいくのだろう」と言ってますし、実際彼は自由や平等を求める公民権運動のために命をかけたのでした。アメリカでは伝統的にキリスト教が多数派ですが、キリスト教では信仰のために命をかけた殉教者が尊ばれてきました。最近では仏教やイスラム教も増えているようですが、これらも基本的には命をかけることを尊ぶものです。911の時には他人を助けるために命をかけた人々がいたと言います。また軍人も国を守るために命をかけているわけですし、異論もあるでしょうがそれは基本的に尊いことだと思います。しかし生活のための仕事に命をかけることはそれほど尊いことなのでしょうか?

基本的に、人は生きるために働くのであって、働くために生きるのではないと思います。中には仕事が生きがいだという人もいるでしょうが、それは個人的な生き方の問題です。
しかし日本では、誰もが仕事のために生きるべきだとみなす風潮があるように思います。

私の会社でも「人生の真の喜びは仕事からのみ得られます」とか「仕事は修行のようなもので、それに打ち込むことで人間性が崇高な境地まで高まっていきます」とかいう訳の分からない社訓がありますが、過労死自殺が話題になった電通でも「大きな仕事に取り組め。小さな仕事はおのれを小さくする」とか「仕事に取り組んだら離すな、殺されても離すな、目的完遂までは」とかの社訓があったそうですから、同じような精神性を感じます。
確かに勤勉なのは良いことですし、仕事の種類によっては拘束時間が長いこともあるでしょうが、それ以前に何のために働くのか、という思想がおかしいところがあるのではないかと思います。