empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

兵役について

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戦争はできれば起こらないほうが良いことであって、基本的にできるだけ避けるべきことだというのは、左右関係なく大抵の人が同意することだろうと思います。
とはいえそれでも起こることはあり得るので、それに備えて戦力を保つべきだというのが私の基本的な考えです。

ところで、「日本で徴兵制を復活させるべきだ」とか「戦争に行きたくないというのはわがままだ」とかいうような意見がありますが、こうした意見は(少なくともそれ自体を取り上げてみれば)極端な意見だと言えるでしょう。
しかし「自分の国は自分で守るという気概がなくてはならない」というような意見があります。
これについては、それ自体としては一理あると思います。一般的に言って、人は自らの共同体を守るべきだと思います。なぜなら、人はその共同体に加わっていることによって公共の福祉を受けているはず(基本的には)なので、彼もまたその共同体を助けるために働くべきだからです。それにまた、彼が受けている公共の福祉には「外敵から守られる」ということも含まれているわけで、その福祉を担保するためにも、彼はその共同体を守るべきだと言えるでしょう。

しかしながら、この手の「自分の国を守る気概を持て」という言説には、常に一種の「うさんくささ」が伴うのを私は感じてきました。で、それがなぜなのかと考えてみると次のようになります。

まず、「自らの国を守るべきだ」ということ自体は確かにその通りだろうと思います。こう言ってよければ、それは一種の「義務」だとさえ思います。
しかしながら、もちろん義務というのは無条件に架されるものではありません。義務があるなら権利もあります。まずそれには国が公共の福祉を守っているということ、そしてもし国の行う戦いが間違っていると思うなら、それに反対する権利をも保証されていなければならないはずです。
つまり、アメリカではベトナム戦争イラク戦争の時に国内で反戦運動が盛り上がりましたが、そのように、もし間違っていると思うなら自国の戦争に反対する権利をも認められるべきであるということです。
もちろん、現場の兵士が自由に反対したりボイコットしたりできたのでは軍(軍や兵士という言い方には異論もあるでしょうが面倒なのでこう呼びます)として成り立たないでしょうから、兵役についている間は無制限にそうすることはできないにしても、兵役についていない人民はそれに自由に意見できるべきだと思います。

なぜなら、もしそうした自由がなく、ただ権力者の命じるままにどんな戦争でも戦わなくてはならないのだとしたら、そのような軍は権力者の私兵なのであって、本当に市民のための軍ではないからです。そしてそのような軍は市民を守るという本来の役目を果たす保証がなく、むしろ市民を弾圧するための道具として使われるかもしれませんし、その他いかようにでも悪事を働かされる恐れがあります。だからこそ、軍は(究極的には)主権者たる国民にコントロールされる必要があるわけです。なぜなら、軍はその国民による、その国民のための軍だからです。軍にシビリアンコントロール(文民統制)が求められるのも一つにはそうした理由があるのでしょう。

国によっては良心的兵役拒否の権利が認められています。モハメド・アリベトナム戦争に従軍拒否したようなこともこれに含まれます。モハメド・アリベトナム戦争を不正な戦争だと見なしていたから兵役拒否したわけです。
また抵抗権(革命権)が認められている国もあります。つまり、もし自国の政府がその国の人民を弾圧し、その権利を侵害するような不正な政府であったとしたら、そして他に手だてがないとしたら、人民はその不正な政府を倒して新しい政府を建てることができるという権利です。もちろん、その重大さを考えればこの権利は軽々しく行使するべきものではありませんが、最終的な権利としては担保されているべきものだと思います。

そしてこうした権利が保証されていてこそ、国防の義務は義務として正当なものだと言えるでしょう。実際に身命をかけるのは市民であるわけですから、ただでそのような義務を負ういわれはないはずです。

私が「自分の国を守る気概を持て」といった言説にうさんくささを感じるのは、その「国」の中身が不明瞭だからです。というのは、もしその「国」の中身が「政府」、さらに言えばそれを指導する「権力者」のことなのだとしたら、こうした言説は(殊にそれが権力者自身の口から語られる時には)つまり「私たち権力者を守るために戦って死ぬ気概を持て」という意味になるからです。
そしてこの国の文化には、自民党改憲草案や残業100時間の残業規制や相撲部屋や野球やヤクザの社会なんかについて見聞きしても思うことですが、「まず人がいて、その人のために国や社会がある」のではなく、「まず国や社会があって、その国や社会のお役に立つために人々がいる」というような考え方が深く根付いているように思うのです。こうした考え方は先に述べた軍の条件とは真逆の考え方です。だからこそ、私はこの国が軍事力を増強しようとすることに不安を覚えるのです。それははっきり言って、この国がそうした面で信用できないからです。

思えばかつての日本軍もまた、「皇軍」であり、軍人勅諭に言われるように「天皇が統率したまう」「臣民」の軍であり、「世論に惑わず政治にかかわらず只々一途に(天皇に)忠節を守れ」と求められていた軍だったのであって、本当に人民のための軍ではなかったのです。
そういえば安倍政権は自衛隊を「国防軍」にしたいようですが、この「国防」という名前もまた「国」を守るという名前であって、「民」を守るとは言っていません。もちろん大事なのは名前ではありませんが、安倍政権のその他の政策と考え合わせて、この国防軍が本当に人民のための軍になるとは私には思えません。

そういうわけですから、「国を守る気概を持て」というよりは、「自分たち自身を守る気概を持て」と言ったほうがより正確でしょう。それは国の外に対してだけでなく、国の内に対してもそうです。国に対して自分たちの権利を守らなくてはならないわけです。
もしこの国がそのような権利を保証せずむしろ侵害してくるような国なのだとしたら、私はそんな国を守る義務など感じませんし、むしろそんな国は滅んでしまえとさえ思います。