empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

「西洋」への偏見

差別や偏見というと、いわゆる「西洋人」がその他の人々を差別することがすぐイメージされるかもしれませんが、当然ながら差別や偏見は誰でも持ちうるものであるし、また現にそれが見聞きされてもいます。

個人的に気になる点として、他のものへの差別や偏見が糾弾されても、「西洋」へのそれが糾弾されないことがあるように思えますし、またそれが、新たな差別と偏見の源となっているのではないかと思えることがあります。

例えば、最近はそうでもないかもしれませんが、いわゆる「西洋」世界は、「物質主義的」だとか、「精神性に乏しい」とか言われることがあります。
よその文化圏に対するこの手の批判は今に始まったことではないようで、本居宣長も中国について、中国はくだくだしい理論や人間の「さかしら」によって自然な人間らしい心を忘れている、というようなことを言っています。そしてそれに続いて、それとは違って日本の心は豊かである……とくるわけです。
しかしその中国ですが、兵馬俑についての本の中で、とある中国人が、兵馬俑を見に来たアメリカ人について語る中で、中国の彫刻とギリシャ彫刻を比較して、ギリシャの彫刻は外面的な肉体的な美しさを表現するものだが、中国のそれはより深い精神性を表すものだ、と述べていました。(それでも「どちらかがより優れているということはない」と言っていただけまだ公平でしょうが。なおここではギリシャ彫刻は「西洋」のものとして考えられているのでしょう。しかし、ギリシャが「西洋」に含まれるのかどうか私は疑問に思ってます)
一方、西洋の側では、中国の道教について書かれた本の中で、(多分イギリスの本だったと思う)中国人は物質的な考え方に深くなじんでいるので、「肉体」というものにとらわれている、なんてことが述べられていました。
また、現代におけるイスラム原理主義の祖ともいわれるサイイド・クトゥブの本にも、西洋は物質主義的で不信心な世界だ、しかし我々は信仰の力でそれに立ち向かうのだ、なんてことが述べられていました。現代のイスラム主義者の多くもこの論調にならっているように思えます。
ところでクトゥブはアラブ人なわけですが、そのアラブ人について、アラブ圏に旅行に来た(またアラブ圏なので、その大方はイスラム教徒と思われる)西洋人の見聞に、アラブ人は基本的に感覚的、物質的なものの考え方をしており、非物質的な「霊魂」のような形而上学的な観念になじんでいない、というようなことが述べられていました。(井筒俊彦もこの点について同じように述べていた。)

客観的な事実かどうかはともかくとして、「我々は精神的であり、彼らは物質的である」というような観念は広く存在しているように思えます。第二次大戦についてたまに云われる、「圧倒的な物量差に負けた」というようなもの言いにも、暗に「でも精神性では勝っていたんだ」という含みが感じられます。

私が思うに、このような観念が生じる理由は、自分の精神性というものは自分が直に実感しているけれど、他人の精神性は表面を見ただけではわからないからだろうと思います。だから、自分は精神的で、他人は物質的であるように思えるのでしょう。しかし、他人の物質性しか見えないのは、実は自分の理解が足りていないからなのかもしれません。

確かに、「西洋」(西洋というくくりにも問題があると思いますが)に物質主義的な側面があるのは事実でしょうし、特に宗教指導者やそれに類する立場の人々ならそういう側面に気を使うということはあるでしょう。しかし、それは西洋の一つの側面なのであって、それが西洋の「本質」だなどとは、西洋人自身を含め誰にも決められないことでしょう。考え方によっては、むしろ西洋こそすぐれて精神的なのだと考えることだってできるでしょう。
思うに、このような「物質的な西洋」という観念は、工業化が成し遂げられた後の西洋で、西洋人自身が「自分たちは、物質的には豊かになったが、精神性を置き忘れてきたのではないか」というような(日本でもあったような)一種の自己批判をし始めたことがきっかけで、後に西洋に対抗心を持つ人々がこの手の言説に乗っかっていったものであるように思われます。(この手の「他人の自己批判に乗っかる」主張は他にも多くあるように思われます)

しかし、こうした偏見を他人に対して持つことは危険なことであると思います。というのは、例えば「西洋は物質主義的である」という言説をそのまま事実として受け入れた場合、
「西洋は物質的である」
「しかし、我々は精神的である」
「だから我々は、精神主義で西洋に対抗しよう」といったことになりかねないからです。

つまり他人への偏見が、自分自身への偏見につながるわけです。

「物質的」ならまだしも、これまたよく言われることですが、「西洋は合理主義的である」という言説があります。そうすると、
「西洋は合理主義である」
「しかし我々は精神主義である」
「だから我々は、合理主義の西洋に対して、それを越えた精神主義で対抗しよう」ということになりかねません。そうして、自分自身が本来持っていたはずの「合理性」をないがしろにして、(合理性などを説く奴は西洋に魂を毒されているのだ、そんな奴の言葉には聞く耳を持たない)結局はその「精神性」が暴走して破滅する、ということになりかねません。

物質主義とか合理主義に限らず、「彼らは何々である。しかし、我々はそれとは違って何々である」という自己規定の仕方は、他人への偏見と自分自身への偏見を同時に作りかねない考え方であると思います。
その上、このような考え方は、まず他人を持ち出し、それからそうではないものとして自分を形作る、という点で、他人に依存した自己規定の仕方であると思います。そしてその他人を敵視している場合は、相手を憎めば憎むほど、その相手に依存しなければならなくなり、それがまた憎しみを呼ぶ、といったような自滅的な依存となるように思います。

しかし、本当に自立した自己であろうと思うなら、そのような他人に依存したやり方ではない自己規定をするべきであろうと思います。そうすれば、そのようなしがらみにとらわれない目で相手を見ることができて、相手の良いところは素直に取り入れ、そうでないところは取り入れない、という仕方で、自らを高めていけるのではないかと思います。