empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

義戦論

自分は自民党改憲案に反対なので、安倍首相の改憲が主に9条に自衛隊の存在を明記する第三項を加える、加憲の方針になったらしいのは一応評価できることだと思います。(緊急事態条項は憲法ではなく別の法律とするべきだと思いますが、この件はひとまず置きます)


その加憲の内容ですが、もしその第三項が、たとえば「前述の規定にかかわらず国は自衛隊を持つ」といったような内容だったとしたら、それは自衛隊を特別扱いして一種の治外法権に置くことになりかねないので、「前述の規定にかかわらず」のような文句ではなく、自衛隊もまた他の機関と同じように法の下に置くために「自衛のためには自衛隊を持つ」といったものにして、その役割を限定するべきだと思います。

(追記:今の私は、もし変えるならば「9条は自衛権を否定しない」の文言を書き加える案が良いと思っています。これなら役割を限定しつつ、ほぼ従来の自衛隊の存在意義を明言することになるでしょう。自衛隊の内容について細かく書き加えると、その文言が法的拘束力を持って、何かに利用される懸念がありますし…)
f:id:empirestate:20181223090139p:plain

さて改憲を考えるということは、今ある憲法についてはひとまず置いて「どうあるべきか」を考えることですから、軍事についていえば、それは「義戦論」、つまりどのような戦いは正当なもので、どのような戦いは正当ではないか、の問題になると思います。

戦いもまた、他のものごとと同じように、それは「正当な戦い」でなければならない、積極的に行うべきことではないとしても、少なくとも正当なこととして許容されるものでなくてはならない、ということはまず前提としてあります。

ともすれば現代の人は、かつて「正しい」という大義名分のもとに行われてきた惨事のために、「正義とか悪とかいうものは無いんだ、正義を言いだすから争いが起こるんだ」とか、「正義の反対は悪ではなく、別の正義なんだ」とかいうような考えに傾くかもしれません。
しかしながら、(正しさや正しくなさの究極的な実体についての哲学的な考察はさておくとしても)人の行い、少なくとも公共に行われる政治的活動のようなことは、まずそれが正しい行いでなければならない、というのは基本的な大前提であり、ただその「正しさ」の内容や妥当性については議論の余地がある、と言うべきでしょう。

というのは、もし「正しい」とか「正しくない」とかいうことが無いのだとしたら、何にもとづいて裁判が行われ、ある人は有罪、ある人は無罪と宣告され、刑罰が科されるのでしょうか?また何にもとづいて、ある行為は義務として行うべきだとされ、ある行為は禁止され行ってはならないとされるのでしょうか?また何にもとづいて、ある法律を通すべきか否かが議論され、ある政策が行われたり行われなかったりするのでしょうか?
公共に行われることは、それが正しく、そうされるべきだからこそ行われるというのが基本的な理念であって、だからこそ、他からは不当だとみなされるようなことも、少なくとも建前としては大義名分を伴っているわけです。

ですから、人の行い、わけても公共の行いはまずそれが正しくなければならない、ということが大前提であって、ただその正しさの内容や妥当性には議論の余地がある、と言えます。

ですから、戦いにもそれを正当とする大義名分が求められるのは当然のことだと言えます。
日本書紀続日本紀でも、朝廷が蝦夷や隼人や三韓の国々と戦ったのは、反乱を鎮めるためだったとか、賊軍が暴虐で良民をおびやかしていたからだとか、神意に従ったためだとかの理由が付けられています。
もちろん、現代では神意を理由にするのは正当な大義名分とはみなされないでしょうが、少なくとも軍を起こすには大義名分が必要であるという考えは、古代から現代まで続くものであるとは言えます。
アメリカはよく戦争をしかけていると非難されますが、それでも自分たちは大義名分もなしに利権のために戦っているんだ、などとは言いません。中国が尖閣諸島を自国の領土だと主張するのも、それを「守る」という大義名分のためだと言えます。というのは、もしそれさえなければ、他国の領土だろうと何だろうと、とにかく利権のために奪うんだ、ということになるでしょうが、あちこちでさんざん非難されている中国でも、そんなことは言いません。

そんなわけで、人の公共の行いには正しさが求められるわけですが、では、その正しさの根拠は何かと言えば、それは「客観性」であると思います。というのは、ただある人がそうだと思うことが正しいのではなく、客観的にそうであることが正しいと言われるからです。
つまり、もし誰か4+3は7ではなく8なんだと主張する人がいたとしても、そうではないことが客観的に明らかなので、それは正しいとは認められません。また風邪をひいた時、それを治すには温かくして寝ているべきではなく、寒い戸外で運動するべきだと主張する人がいたとしても、そうではないことが人々の経験によって確かめられるので、やはり温かくして寝ているべきだとされます。また裁判で人が有罪になるのも、ただ裁判官が有罪だと思うからそうなるのではなく、やはり客観的な根拠が求められるはずです。
こうした判断が「合理的」であることが求められ、また政治が客観的に証明できないような宗教的信念にもとづいていてはならないのもこのためです。

さて政治一般についていえば、昔の記事でも書きましたが、国は公共の福祉のために存在しているのであって、政治はそのために行われるべきだと言えます。ですから、軍事もまた公共の福祉のために行われるべきだと言えます。(このような理念は日本書紀にも続日本紀にも見られます)
ではこの点からしてどのような戦いが正当なのかといえば、それは人の生命身体や、自由や権利を守るための戦いだと言うべきでしょう。
というのは、それを守ることは人の最も基本的な必要の一つであって、それをよりよく守るために、人は共同体を組織しているからです。

例えば、人がある社会に加わっていても、その中ではいつ誰に殺され傷つけられるかもわからないし、それを禁止する法律もない、また外部の他の集団から襲われても、誰も協力してそれを防ぐことがない、としたら、その社会に加わっている意義はほとんどないし、そもそも社会として機能しないだろうと思われます。ですから、人々が互いに攻め滅ぼし合うことは禁止されるし、また外から脅威が迫った場合には協力してこれを防ぐべきである、ということは理にかなったことであると言えます。集団に限らず個人であっても、襲われた時に敵と戦うのは正当防衛だとみなされますが、それも自己を守ることが人の自然であり、またそれを守ることが社会の存在意義の一つであることによると言えます。
そしてこれは自然によって備えられ理性によって導き出される法なので、いわゆる自然法であり、特定の社会のみならず人間一般に当てはまる法だと言っていいでしょう。

一方で、攻めることについて言えば、例えば他の集団を攻め滅ぼして、その土地や資源を自分たちで分け合ったら、それは公共の福祉にかなうことではないか、という考えがあるかもしれません。
しかしながら、もしこのようなことが許されるとしたら、他の集団のほうでもまた、自分たちを攻め滅ぼしてその資源を奪うことが許される、ということになるでしょう。というのは、他の集団にしてもやはり人間であるならば、一方は他方を殺してもよいが、もう一方はそうしてはいけないというどんな客観的な理由があるでしょうか?
それにまた、このような集団は時と場合によっては別の集団に吸収合併されたり、分裂して別組織になったり、また縁戚関係やその他の関係を結んで、一方の成員が他方に加わるということが考えられますが、これによって今まで殺してもよかった相手が急に味方になって互いに助け合う関係になり、またはその逆になる、ということは、人間の性質からして受け入れがたいことだと思いますし、それは人ではなく集団を価値の源泉としていることになり、人のために社会があるという公共の福祉の理念に反することになるでしょう。

そんなわけで、もし自らの利益のために他を攻撃することが許されるとしたら、それはまた他が自らを攻撃することを正当化することになるので、それは許されないことだと言えます。というのは、もしそれが許されるとしたら、原理的には強盗殺人だって許されるということになろうからです。

そういうわけですから、正当な戦いとは、基本的には防衛のための戦いである、と言っていいでしょう。つまり、個人において正当防衛だとみなされるものと原理的には同じだと思います。
(一方で、他が自らを攻撃しようとしていることが明らかな場合には、これを先制攻撃したとしても、それは防衛のための戦いだと言っていいでしょう。つまりそれは先制攻撃できないとかいう形式の問題ではなく、目的の問題だからです。もちろん、このようなことが無制限に認められるようでは結局やりたい放題になってしまうので、これはよほど限定的な場合ですが、原理的には防衛のために行われる戦いは防衛戦だと言えます。
追記:ここでいう先制攻撃の正当性は、例えばもし誰か「三日後にあなたの国を攻撃します」と宣言してその準備をしている者がいるとしたら、その攻撃が実行される前に相手を攻撃しても不当ではない、というようなことです。まあ実際にはそんな事態はなかなか無いでしょうが、原理的にはそういうことです)

アメリカ独立宣言では、アメリカが独立戦争を起こしたのは、当時宗主国だったイギリスの不当な弾圧に抵抗するためだったと言われていますし、またこの中では基本的人権について言及されていますが、これも独立戦争がそうした自由や権利を守るための戦いだったと言わんとしているためでしょう。
中国で殷が夏を破り、周が殷を破った戦いも、それは暴君が人々を虐げていたから革命が起こったのだとされています。
ドイツとイタリアにも侵略を禁止する法律がありますが、これは防衛の権利を否定するものではありませんし、実際これらの国にも軍隊があります。

思えば日本においても、かつて「神風」の例として引き合いに出された元寇の時の戦いは、それは確かに防衛戦だったと言っていいでしょう。また白村江の戦いも、それは同盟国であった百済を(たぶん高麗も)助けるための出兵だったのであって、私としてはそれは大義名分としては不当なものではなかったと思います。その後に防人が置かれたのも、(防人にとっては不幸なことだったでしょうが)私は不当とは思いません。

とはいえ、戦争はたとえ「正当」なものとして許容されるものだったとしても、それは決して積極的な善ではなく、消極的な善である、つまり戦争が起こるよりも起こらないで問題が解決するほうがより良いことであるのは明らかであって、戦争が正当なものであったとしても、それはより大きな悪を避けるためにより小さな悪を取るというごときものだと言うべきでしょう。孫子も言っていますが、百戦百勝するよりも、戦わずに勝つほうがより良いことだからです。

ですから、人は外国とは、あるいは一般に他の人とは、平和な関係を築くように努め、それでも戦いが起こった時には大義のために戦う、というのが基本的にあるべき姿だと言っていいでしょう。
これに対して、いたずらに対立を煽っておきながら、いざ戦争が起こったら自分では戦わず、他人に戦ってもらおうなどと考える者がいるとしたら、それは遠回しな大量殺人であり、外患誘致だと言われても仕方ないでしょう。