empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

リベラリズムの理念

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以前は余計なお世話かと思ってあえて書かなかったのですが、最近リベラル勢の間で考え方の違いとか方向性の違いとかで内紛があり、それがまた、日本の野党がたびたび分裂してきたこととも重なって思えたので、ここであえて、リベラリズム(リベラル)の基本的な理念とは何か、ということについて、私の考えを述べておきます。

リベラリズム(自由主義)の定義は人によってばらつきがあるようですが、辞書を見ると「個人の自由を基本とする考え方」であり、特に近代国家の基本的な価値観だと見なされているようです。
で、こうしたリベラリズムの、政治における基本的な理念は何かと言えば、私はそれは「まず個人があって、その福利のために国家があるという考え」だと思います。

これに対して、「まず国家があって、その国家に奉仕するために個人がいる」という考えがファシズム(全体主義)であり、これらは対立する観念だと思います。

この対立軸でいえば、もちろん私はリベラリズムを支持します。それが理にかない、また倫理的だとも思うからです。

☆☆☆【自然権自然法

つまり、国家の成り立ちを考えてみると、国家とは人が集まって協働してできるものであり、それを構成する人を抜きにしては、国家は存在し得ないわけですから、その意味で「人」は国家に先立つものだといえます。そんなわけで、国家についてはまず「人」がその基本となります。さらにいえば、それを構成する一人一人、つまり「個人」です。

そして、人は個人としては各々自らの生命を持ち、自らの自由を持ち、自分が良いと思うことを行いますし、自らの精神や身体や財産を持ちます。
つまり、生命、自由、幸福の追求などを自らの分け前として持つわけですが、人がこうした性質を持つのは、人の生まれつきの自然によるものであって、つまりは神(または自然)によってこうしたものを与えられているのであり、漢語で言えば「天賦」の権利を持つということになります。つまり、自然権、人権を持つわけです。
(「神」と言うと、うさんくさいと思う人もいるかも知れませんが、要は他人から受けたのではなく、「生まれつき」「自然」のものだというのが肝要なところです)
そして人はこうしたものを、自らの人間性の一部として持っているわけですが、その人間性は一人だけが持っているのではなく、人々皆が持っているものです。つまり人々には、男か女か、大人か子供か、背が低いか高いか、色白か色黒かなど、様々な性質の違いがあっても、それによって人であると言われるところの性質は共通のものなのであって、これによって人々は本質的に平等であるわけです。

そしてこうした個人が集まって共同体を作るわけですが、人はもし、自分一人だけでも十分に生命や身体や財産を守ることができて、誰にも何にも妨げられずに自由と独立を守ることができて、また自分独りだけで生きていても、何ら精神的な痛痒を感じることがないとしたら、その人は共同体を作って生きることをしないでしょう。
しかし実際にはそうではないので、人は基本的に協力して自分たちの生命や身体や財産を守り、自由と独立を守り、また共同で生きることに精神的な満足を覚えもします。そういうわけで、人は集まって家族や部族や国家を作るわけですが、人がそのようにして共同体を作るのは、それが自らの福利になるからであって、その構成員一人一人の福利のために、国家は存在しているわけです。

そしてこうした福利が確保できなくなった時には、国家もまた衰退し、滅んでいくことになります。そしてまた、こうした福利が確保できなくなるだろうと思う時には、人は国家の体制を変革しようとし、時には国家を捨てていくこともあり得るわけですが、これは歴史が示している通りです。そんなわけで、国家は人の福利のために存在し、またそのために存在するべきものでもあります。
そして、人が国家を持つのは自らの福利のためですから、それは自由な幸福の追求のためであり、それによって自らの生命や財産や自由を守るためであって、結局はそうした一人一人の自然権を確保するために、国家は存在しているわけです。

そして、人は自らの福利の追求のために国家を持つわけではありますが、その追求は、平等と自然権の確保の原則からして、他者の権利を侵害しないものであるべきだと見なされます。ですから、暴力や詐欺によって他者から奪うことは禁じられます。
また、自分だけの利益を追求するべきではなく、他者の利益ともなるべきだと見なされます。つまり、人々は互いに助け合って生きるべきだと見なされます。それは人の自然がそうさせるのであり、またそうでなければ一人で生きているのと同じで、国家の意味がないからですが、これによって、為政者は自分だけの利益を追うべきではなく、全体の利益のために働くべきだと見なされます。
そしてこうした原則が守られることによって、一人一人の権利が守られ、それが人々の共通の福利となるわけで、つまり「公共の福祉」となります。そしてこの公共の福祉が国家の存在意義なのです。(こうしたルールはまた自然法とも呼ばれますが、自然法とか自然権とか云うのは、もちろん人間同士の場合のように取り決めによる法や権利ではなく、自然の道理としてそうあるべきという一つの規範です。)

☆☆☆【古今のリベラリズム


そんなわけで、アメリカ独立宣言では、冒頭で天賦人権説に言及していますが、これは余計な付け足しや付帯的な言及などではないと言えます。つまりこの考え方でいえば、国家は究極的には自然権の確保のために存在しているものだからです。そしてこの権利が「天賦」のものだということは、この権利が、国家や君主から与えられたものではなく、天から「直接」授かっているものであり、国家のために人があるのではなく、人のために国家があるという理念を支えるものとなっているわけです。

そして、私が考えるリベラリズムも、またこのような理念を基本にしているものです。私の政治についての考え方は、アメリカ独立宣言の考え方と基本的に同じものです。
つまり、「人のために国家がある」というものです。自然権の理論によらない考え方もあるかもしれませんが、ともかく「人のための政治」というのが肝要です。

アメリカ独立宣言(アメリカンセンタージャパン)
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547

で、アメリカ独立宣言に見るように、こうした自然権人民主権の考えは特に近代西欧で発展した考えではありますが、しかしそこに限られているのではなく、全く同じではなくとも、これに通じる理念は古代から存在していました。国家は人々の共通の福利のためにあるという考えは古代ギリシャアリストテレスも述べていますし(というか、これが近代思想の一つの源流でしょうが)、また中国や日本にもこれに通じる思想は存在していました。

例えば日本書紀では、仁徳天皇がこう言っています。

「天が君主を立てるのは、人民のためなのだ。だから君主は、人民を第一として大切にするものである。人民が貧しいことは君主が貧しいことであり、人民が富んでいることは君主が富んでいることである」(仁徳天皇紀)

日本紀の他の部分や、続日本紀にも幾つか同じような表現があります。(「国家の隆泰は要(かなら)ず民を富ましむるにあり」―元正天皇
「民はこれ邦(くに)の本なり。本固ければ国寧(やす)し」―桓武天皇)
ここで述べられているのは君主の徳ですが、君主制においては君主と政治が一体不可分であることを思えば、実質的には政治の原則を述べたものであると言えるでしょう。そして、天皇のこの言葉は、実は漢籍(中国古典)からの引用なのですが、中国にもこうした思想があって、特に先秦時代にはこういう記述が多い気がしますが、例えば「書経」にはこうあります。

「上帝(神)は衷(まごころ)を人民にお下しになっている。その常に変わらない人間の本性のままに、人民の生活を安定させる謀(はかりごと)を立てる者こそ、天下の君たるべきものである。」(湯誥)

「天は地上の人民を擁護するために、君主を立て師長をおいて、よく上帝を助けて四方の人民を愛養して安心させようとなさっている」(泰誓上)

また、暴君を討伐するべきことを語る場面ではこう言っています。

「古の人が言っている。『我々を愛養するなら主君だが、我々を虐げるなら讎(かたき)だ』と。独夫の受(殷の紂王)はたけだけしく暴威を振りまわしており、そなた達の代々の讎なのだ。…されば予は、ここにそなた達、もろもろの士を率いて、そなた達の讎を討とうとするのだ」(泰誓下)

後には専制政治のもとで苦しんだ地域にも、古代にはこういう思想がありました。また、私は詳しくないですが、インドにもこういう思想があったようです(仏教のジャータカ物語の猿王の話)。しかしそれも当然のことであって、自然の理として、君主には自然とそうした徳が求められるわけです。そういうわけで、物語や伝説でも、民を虐げる王は悪しき王であり、民を慈しむ王は良き王です。

☆☆☆【現代日本リベラリズム

現代の日本においては、こうした原則は、まず憲法の前文で次のように述べられています。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」

また、11~14条では次のように述べられています。

「第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

私としては、こうしたものがリベラリズムの基本だと思います。なので、こうした基本的な理念に賛同する限りは、その他の要素は幅があって良いと思います。

一般に、リベラル派は戦争に反対し、経済格差を縮めようとする傾向がありますが、しかしそれがリベラリズムの「根本」なのではなく、それは「個人を尊重する」という理念から派生してきたものだと思います。(つまり、一人一人を尊重するから、一人一人の福祉に気を使うわけです。)ですから、それが必要だと思われる時には、リベラル派が軍事を押し進めても構わないわけです。もしそれが、人民の生命や財産や自由を守るために必要だと思うならば。(アメリカ独立宣言も、独立戦争大義名分を述べたものですし)
また、天皇制などの伝統的な価値を尊重することについても、それが「国民主権」などの基本的な価値観よりも優先されるものでなければ、それを尊重したって一向に構わないわけです。
むしろ、民主制については、古来から「自由が行き過ぎ、民主制が行き過ぎると、民衆の煽動家が現れ、彼が民衆を利用して権力を掌握して独裁者になってしまうので、行き過ぎた民主制は結局は独裁制になってしまう」ということが言われていますし、それは実際の歴史上にも現れていることですから(中国の歴史ではこうしたことがよく見られるように思います)、伝統的な価値を尊重することについては、絶対ではないとしても、やはりある程度は傾聴するべきことでもあるでしょう。
とはいえ、その必要がある時は、改めることもあるでしょうが。(「たとえ古くからの風習であろうと、良くないことならば、どうして従う必要があろう」―垂仁天皇)

一方で、自民党改憲案11条のQ&Aでは、天賦人権説について、「天賦人権説はキリスト教の考え方なので、日本では採用しません。権利は共同体の中で生成されてきたものです」などと寝言を言っていますが、これは単なる伝統の尊重ではなく、国家がよって立つ理念を根本からくつがえすものであるわけです(もし権利が誰か人によって与えられたものなら、また人によって奪われることにもなるでしょう)。ですから、自らの生命や財産や自由を守ろうとするならば、こうしたファシズムの理念には抵抗していかなければならない、ということになります。

なお、リベラリズムと伝統的な道徳との関係については、こちらもどうぞ。
「自由が行き過ぎると自由を滅ぼすという話」

http://empirestate.hatenablog.com/entry/2018/11/05/194743

☆☆☆【リベラリズムファシズムの違い】

そんなわけで、「人のために国家がある」というのがリベラリズムの理念ですが、逆に「国家(あるいは、全体)のために人がいる」というのがファシズムの理念であって、これはリベラリズムとは相容れない観念です。(これは右派、左派を問わないものです。)
こうした理念の違いからは実際の生活にも幾つかの重要な違いが出てきます。以下は「典型的」な例なので必ずしもこの通りになるとは限らないものの、例えば次のようなことがあります。

まず一つには、リベラリズムでは一人一人の人が尊重されるので、男も女も子供も老人も尊重されますし、民族的、宗教的、性的マイノリティも尊重されますし、生産性が低くても障害があっても尊重されます。
一方、ファシズムでは、国家に貢献できるかどうかが重要なので、国家の役に立つ「有能」な者だけが尊重されることになります。ステレオタイプな言い方をすれば、強くて有能な男と、従順で子沢山な女だけが尊重され、その他のあまり有能でない者たちは、とにかく国家への忠誠心が高ければ存在を許されるといったことになります。
一方で、国家のためにならないと見なされる者は排除されるので、国家への一体性が低いようなマイノリティや、国家の「邪魔」になると見なされるような病人や障害者などは排除されることになります。つまり、ナチスがやったように、精神病の者や性的マイノリティや民族的マイノリティは抹殺されることになります。そして、国家にとって有害と「見なされる」者は、国家権力によって公然と、あるいは秘密裏に逮捕され処刑され、それに異を唱えることもできない、ということになります。

また、人々の間のルールとしては、リベラリズムにおいては人々は平等なので、社会的な上下関係にもとづいた誰かの権威によるのではなく、普遍的な道理や法律にもとづいて、人々の間がとり裁かれることになります。
一方、ファシズムにおいては、国家が先に立つので、社会的な上下関係にもとづいた誰かの権威によってことが行われ、普遍的な道理や法律は後に退き、権力者の決定が理不尽なものであっても、それに反対したり異を唱えることが困難になります。こうして、不正やえこひいき、セクハラやパワハラが横行することになります。そして、国家機構が人民の同意によらずに権威を持つので、こうした社会的な上下関係が、一時的で限定的な関係としてではなく、本質的な差別構造として固定されることになります。

また、学問や報道については、リベラリズムにおいては、人の権威によらず、「事実」は何かということが重視され、事実を追求します。
一方、ファシズムにおいては、「国家」のためになることが重視されるので、国家にとって都合の悪い情報は排除され、国家にとって都合のいい情報ばかりが集まり、それにもとづいて意思決定が行われるということになります。ソ連では学問の世界に政治が介入して、政府の意に沿わない学者が弾圧されることになりました。中国では今も情報統制が行われています。

また、権力のあり方としては、リベラリズムでは人民主権であり、国民の同意にもとづき、国民の福利のために政治が行われ、そのための能力を持つと見なされた者が権力者となります。
一方、ファシズムにおいては、人民ではなく国家に主権がありますが、「国家」というものはそれ自体で意思を持っているわけではないので、実質的にはそれを運営する権力者が主権を持つことになります。(これは君主制において、暗愚な君主が傀儡となって、実質的にはその側近が政治の実権を握る状態にも似ています)
そして、権力者たる資格としては、国民の同意やその福利には基づかず、国家への忠誠心や一体性にもとづくことになります。要するに、「愛国心」や「名門の家系」ということが重要になるので、こうしたものをアピールすることになります。

そして、国家の体制が国民の同意によらずに権威を持つので、ひとたび権力者となれば、「権力者の地位にある」というそのこと自体が権力の源泉になり、こうして権力者となれば、彼をその地位から退かせることが困難になるので、その支配は長く続くことになります。そして、権力者は国民の同意や福利にもとづかないので、その支配下の人民に恣意的な権力を振るうことができるようになります。要するに独裁です。
ですからファシズムは、実は権力者にとっては都合のいい考え方なのです。(彼が権力者でいられる間は、ですが)そして、権力者としては恣意的に振る舞えるのである意味「自由」ではありますが、しかしそれは他者の不自由の上に成り立っているので、それは自由ではなく、「専制と隷従」ということになります。

また企業においても、リベラリズムにおいては、従業員一人一人の権利が認められ、その生活が保証されその意思が尊重されることが求められます。
一方、ファシズムにおいては、国家の場合と同じく、企業自体が大事であり、従業員は己を捨てて企業に貢献するべきだと見なされます。そして従業員は己を捨てて企業に従うことが求められますが、企業はそれ自体として意思を持っているわけではないので、結局は企業の経営者が富と権力を独占することになります。そして従業員は、その生活も健康も意思も尊重されないので、低賃金で長時間労働、怪我や病気になっても補償は行われない、ということになります。

また軍事においては、リベラリズムでは、その軍事行動は国民の福利のために行われ、道理にもとづいて、人々の生命や財産や自由を守るために行われ、またそのために停戦や終戦も決められます。
一方、ファシズムにおいては、「国家」のために軍事が行われますが、その「国家」は「国民」ではないので、要するに国家の体制、つまり政権や政党や権力者や国王のために行われるということになり、人民がそのために大量に犠牲になっても構わない、ということになります。極端な話、人民が死に絶えても、国王だけが生き残っていればいい、ということになります。
また他の場合と同じく、権力者の恣意的な意向によって行われるので、必要もないのに戦争が始められ、無理な作戦で大量に犠牲者を出し、しかも指導者は責任を取らない、ということになります。

そしてこうしたことは、私達がすでに直接間接に知っていることでもあります。ですから、こうした事態を避けるためには、ファシズムの理念に抵抗していくことが必要です。