empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

儒教の再考

以前の記事( http://empirestate.hatenablog.com/entry/20171015/1508061690?_ga=2.267850766.1238838379.1543448984-1688256755.1532434600 )でも書きましたが、日本は儒教圏に含まれており、儒教的価値観が根付いていると思います。もちろん、中国や朝鮮やベトナムとはまた違った形で、ではあるでしょうが。

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これに対しては、日本の文化は神道に基づいているんだという意見もあるでしょうが、私としては、神道の内容は儒教と親和的であって、儒教と習合しつつ生きてきたものだと思います。

で、現代の人は儒教というとあまり良いイメージを持たないことが多いように思います。家父長制、封建制、不自由で差別的というイメージです。
私も昔はそれでろくなイメージが無かったですが、譚嗣同の「仁学」などを読んで少しずつ考えが変わってきました。確かに儒教教条主義的になっては不自由で差別的になるでしょうが、教条主義的にならなければ、確かに普遍的な道徳を述べているとは思います。

代表的な儒教道徳には仁義礼智信がありますが、人には仁(思いやり)も義(正しさ)も必要ですし、智(学を深めること)も信(信用できること)も必要でしょう。これらについては、儒者でなくても特に異論はないと思います。礼については異論もあるでしょうが、「墨子」では「礼には様々あるが、その根本は“敬い”の心である」と言っていますし、これも教条主義的でなければ、変化しつつもある程度保つべきものではあるでしょう。(墨子儒家ではありませんが、古代においては礼は一般的なしきたりで、儒家特有のものではなかったということですね)

これらとは別に、私が特に儒教の問題点だと思うのは、「忠」と「孝」、つまり君主に対する忠誠と、家族、特に親に対する忠実さの徳目です。とはいっても、もちろん親孝行など必要ないとか、上司を無視してもいいなどとは思いません。
ただ、儒教においては、これらが個々人以前の大前提とされている感があり、それらを抜きにした人の在り方というものが考えられていない、むしろその枠組みから外れる者は人非人だとでもいうような考え方が支配的であるように思います。
ですから、君主に反抗したり、親に反抗したりするようなことは大それたことで、よほどのことがない限り許されないことです。

そんなわけで実際、儒教の価値観が強ければ封建制で家父長制、不自由で差別的な社会になりがちですが、しかしそれも、必ずしも絶対というわけではありません。

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孟子

儒教では忠孝は大事な徳だとはいえ、ただ文句を言わず従うばかりであることが求められているのではなく、もし君主が間違ったことをしていれば、これをいさめることが正しいとみなされています。
また孟子は親に対してはともかく、君主に対しては、条件次第ではこれを廃してもいいとしています。つまり、君主にも君主として果たすべき務めがあるのであって、もしその務めを果たさず、悪しき振る舞いをし続けるのであれば、それはもはや君主ではなく独夫(ただの人)であるので、これを廃して新たな君主を立ててもいいという、いわゆる暴君放伐論です。(中国以外にも同じような理論がある)

これを近代の社会契約論に当てはめてみれば、社会は人々の相互の契約によって成り立っているのであって、そこで為政者になる人も、その役職に適当であるからこそ、人々から選ばれているのだと言えます。だから、もしその地位に不適当であればこれを廃してもいいというわけで、その地位は不変で先天的なものではないということになります。これは孟子の考えとも通じます。
また、君主制の社会では、たとえ暴君を廃することができるとしても、それは武力による反乱でそうするということになるでしょうが、民主制の社会では合法的にそれが行えますし、為政者は任期が限られていて定期的に入れ替わるので、こうして権力の集中を防ぐことになります。こうして、人が暴君になりにくいシステムを作っているわけです。

また親や家族に関して言えば、儒教では親や家族にもそれぞれ「らしさ」が求められるのであって、親は親らしく、子は子らしくする、ということが求められます。(具体的に言うと、親は子に慈しみを持ち、子は親を敬うべきといったものです)
ですから、ここにも一種の社会契約があると言えるでしょう。とはいえもちろん、家族の関係は君臣の関係よりも情義の結び付きが強いのが一般的ですから、軽々とその関係を絶つというわけにはいかないでしょうが、それでも、もし虐待のようなことがあるなら、その関係を絶っても不当ではないはずです。世の中には「勘当」というものもありますし、家族関係といえども不変というわけではありません。

この点についてさらに言えば、世の中には義理の家族というものがあります。それで、もしその義理の家族がそれぞれ互いに仁義を保ち、いわゆる「親は親らしく、子は子らしく」という関係を保っているとしたら、それは良き家族の在り方なのであって、その絆は絶つべきではないということになるでしょう。
一方で、血がつながった家族であっても、もしその関係が不和と対立の内にあるとしたら、それは家族として良き在り方ではないのであって、場合によっては勘当などして、その絆を絶つこともあり得るということになるでしょう。

ですから、家族の関係にとって、血のつながりは必ずしも必要不可欠なものではないのであって、むしろ仁義のつながりこそが必要なのだと言えるでしょう。

それで、こうして考えれば、君臣父子の関係は確かに大事なものではあっても、「絶対」で「第一」のものではないと言えます。
実際、儒教発祥の地である中国でも、こうした儒教的な君臣父子の関係とは反するような理念を持つ仏教が広まり根付き、また道教によっても儒教的価値観は相対化されてきたのであって、人々は必ずしも常にこの価値観に忠実であり続けたわけではありません。それも、人の持つ人間性からすれば当然のことではあります。

ですから私たちも、儒教的価値観を一定程度評価しつつも、なおそれを絶対視せず生きていくこともできるでしょう。具体的に言えば、為政者や権威者を敬うことは確かに必要ではあるとしても、しかしその敬いは絶対的で無条件なものではなく、その人が信義にもとることをしていれば、これに従わず、罷免することもできるわけです。
中世の武士でさえ、「ご恩」があるから「奉公」したのであって、無条件に奉公したのではありません。だから、後醍醐天皇に反発した武士たちはあえて反旗をひるがえしもしました。

なおこの点に関しては、日本で孟子の暴君放伐論が広まらなかったのは、それが天皇制に反するからだという説があります。この理論で、もしいつか天皇が廃されてしまってはいけないからというわけです。確かに、天皇の地位は中国の君主に比べると、一種の宗教的権威の傾向が強いので、人間同士の社会契約とは違って、ただその契約に反しているからというだけでは廃しがたいかもしれません。

しかし、現代の天皇は政治的な実権を持たない一種の名誉職なので、政治権力を持たない代わりに、その政治の責任を問われることもありません。ですから、天皇がこの名誉的な地位にとどまる限り、為政者ではないので、放伐される要もない、ということになります。(もしそうでなく、実際に政治を行っていれば、やはり政治の責任を問われることになり、場合によっては廃されることにもなるでしょう)
ですから、私たちは天皇の地位を心配する必要はなく、「実際に」政治を行っている人々の責任をどんどん追及して一向に構わないということになります。