empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

続日本紀

先日、続日本紀を読み終えました。本当はもう少し早く読み終わっていたのですが、色々あって感想を書くのが遅くなりました。

続日本紀の扱う期間はおおかた奈良時代と重なっています。決して平穏ではない期間ですが、読む側としては興味深いものでした。当時生きていた人々にとっては大変だったでしょうが。

個人的に気になったところとしては、まず文化的な面として、「氏族」というものが、当時としては重要なものであったらしいことがうかがえました。
当時の天皇に対して、ある氏族に属する人々が、祖先が同じであるのに後に分家によって氏姓が変わったのを、元の氏姓に戻してくれるように頼んだり、紛らわしかったり不適切と思われる氏姓を直してくれるように頼んだり、「誤って母方の姓で記録された」のを直してくれるように頼んだり(また、結婚後も妻の姓が変わっていない。つまり、当時は夫婦別姓だったということでしょう)している記事がところどころ出てきます。

またこれと関係して、よく日本の古典文化として「神仏習合」ということがいわれますが、やはり神道は、仏教よりはむしろ儒教とより多く習合しているように思えました。続日本紀では日本古来の宗教を指して「神道」とは言っていない、そもそも固有の名前で呼ばれてもいなかったと思いますが、儒教と仏教については、ある学者が「儒教と仏教は趣旨が違うように見えるが、究めればその意義は通じて一つである。儒教は仏教を助けるものだ」と言っていたと述べられているからです。もっともこの思想の元は漢籍から引いてきたもののようですが。

また当時はすでに仏教が確たる地位を持っていたようで、称徳天皇の行き過ぎた仏教優遇政策はその没後改められているものの、その後も仏教は朝廷に公認され、また同時に干渉も受けつつ行われています。
それと共に、朝廷から独立して活動していた行基の集団もあります。(行基は後に聖武天皇の信認を得ていますが、「日本霊異記」には朝廷から独立して活動していた民間の私渡僧が他にも多くいたことが述べられていたと思います)

また政治思想としては、君主は民の安寧のために働くものだという思想がしばしば見られます。それは元明天皇元正天皇の詔や、孝謙天皇(のちに称徳天皇)や桓武天皇の詔にも見られます。(国家の隆泰は要(かなら)ず民を富ましむるにあり―元正天皇
民はこれ邦(くに)の本なり。本固ければ国寧(やす)し―桓武天皇)

仁徳天皇が民のかまどの煙の立っていないのを見て一時的に税を免除したという話はよく知られていますが、これはなにも仁徳天皇だけのことではなく、続日本紀でも、ある地方が飢饉や災害に見舞われた場合には税を一時的に免除したり、食料や薬を援助したという記事がしばしば出てきますし、天皇のみならず官吏に対してもやはり民の安寧のために働くように求められています。
こうした、いわば民本主義的な君主観と共に、こうした君主の位が、神や「天地」によって与えられたものだといういわば王権神授的な君主観も並行して出てきます。
現代では王権神授説は受け入れがたいものでしょうが、それと共に古くから民本主義的な思想が行われていたことを知るのは、古典と現代を繋げる上で役立つだろうと思いました。
飢饉や災害を天皇の不徳のせいだと見なすところなど、時代の限界はあるものの、こうした君主観は今に通じるものだと思います。(このことは桓武天皇の詔の中で天皇が神として描写されているのと共に人としても描写されているのと並行です)

また対外関係としては、唐代中国からの影響が大きいものであったことは言うまでもありませんが、それ以外の国や民族との関係も多く見られます。

唐との交流が続いていたことは以前から知っていましたが、続日本紀より前の日本書紀で唐、新羅と戦って白村江で敗れ、朝鮮半島の領地を失ったことから、これ以降、新羅との関係は途絶えたのかと思っていたら、それ以降も新羅と使者をやり取りしていたのが意外でした。しかも従来通り新羅のほうが朝貢する形で行われているので、外交関係はたとえ戦争があった後でもそう安易には変わらないものなのだなと思いました。もっとも、その後仲が険悪になってまた戦争になりかけてもいますが。

また日本書紀斉明天皇紀で高句麗が滅んでいますが、高句麗の後継である「渤海」と再び外交関係を結んでもいます。渤海とも途中で仲がこじれていますが、おおむね良好な関係であるように思えました。

それのみならず、当時の朝廷ではベトナムにあった「林邑」や中央アジアらしき「叶羅」の音楽などが演奏されていますし、聖武天皇の時、奈良の大仏の開眼供養をしたのはインド僧の菩提遷那ですし、日本を発った遣唐使が「崑崙国」(インドネシア)に漂着して現地の賊に襲われ王宮で監禁されたものの、唐と交流のあった崑崙国の人のおかげで助け出されて唐に渡ることができ、その帰りに渤海に渡って国書を日本に持ち帰った話などもあり、日本は古くから海外と交流があったのだなと思いました。また、唐や三韓から日本に帰化した人々の記録も多くあります。かの有名な坂上田村麻呂後漢霊帝の末裔だとされていますし。

また現在では「日本」に含まれているものの、九州に住んでいた「隼人」と東北に住んでいた「蝦夷」もやはり異民族の扱いになっています。またこの両者は朝廷に反乱を起こしてもいます。
隼人は比較的早く中央に同化した(そもそも皇室と親類関係のようですし)ようですが、蝦夷は長く反乱を続けており、そのためか後世まで長く夷狄の扱いを受けているように思えます。東日本をどちらかといえば辺境の地、その住民も粗野な性質だとみなすようなイメージはその後の日本の古典でもしばしば見られるように思います(現代にもあるかもしれません)。もっとも、中央に協力していた蝦夷もいますし、日本書紀でも蝦夷の地に赴いた朝廷の使者が現地の神を祭った話や、蝦夷の間から初めて仏教の僧侶が出た話なんかも出ていますが。

かつて今上天皇が日韓ワールドカップの際に、桓武天皇の母方の家系が百済の家系であることに触れて韓国とのゆかりを語ったことがあり、これに対して色々と民族主義的な反応があったようですが、続日本紀を読めば、こうした「海外」との関係はなにもそう特別なことでもないと思えるだろうと思いました。現代でも宮中では唐楽や高麗楽が演奏されているようですし。

また当時の外交関係の負の面としては、なにかと「どちらが格上か」を気にしているようなところがあり、新羅渤海との関係が悪化したのも大方これによっているようです。日本は三韓に対しては格上として振る舞い、唐に対しては対等な関係とみなしていたようですが、どうやら唐の側では対等とは見なさず、自らを格上とみなしていたようで、日本側としてはこれに対して、相手との関係を悪化させず、かつ自らの面子も保とうと神経質になっているような感がありました。恐らくは新羅渤海も日本に対して同じような思いを持っていたのだろうと思います。(聖徳太子の「日出ずる処の天子」の国書が当時物議をかもしたのも、聖徳太子が後世長く尊敬されてきたのも、部分的にはこのためであろうかとも思われました)
こうした上下関係へのこだわりはいわゆる儒教圏の弊害なのでしょうが、現代の国際関係は少なくとも名目上は「対等」が原則なので、その点は古代よりずっと良いことだと思いました。

他にも色々個人的に気になるところはありますが、ここに書くこととしては以上のようなものです。