empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

国家神道死すべし

以前の記事でも書きましたが、日本はかつての大日本帝国(以下、日帝)の反省の上に立っている(また立つべきでもあると思う)のに、日帝の「何を」反省するのかが曖昧であったと思います。http://d.hatena.ne.jp/empirestate/touch/20170116/1484563223

なぜ私が日帝を反省するべきだと思うのかと言えば、それは日帝全体主義ファシズムの国だったと思うからですが、ではその全体主義はどんな理念に支えられていたのかと言えば、私としてはそれは「国家神道」であったと思います。
http://d.hatena.ne.jp/empirestate/touch/20170628/1498665080

つまり、神道によって日本と日本人とを定義づけ、神道によって天皇の地位を権威づけ、その天皇によって統治されるものとして日本と日本人を定義づける、そのような政教一致の思想であり、森元首相の言ったような「日本は天皇を中心とする神の国」という思想、ひいてはいわゆる人間宣言で否定されたところの、「天皇を以て現御神(現人神)とし、かつ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念」です。このような理念は大日本帝国憲法教育勅語軍人勅諭や、靖国神社や宮城揺拝などに現れていると言えるでしょう。


私は国家神道は否定されるべきものだと思いますが、もちろんそれは神道天皇制そのものを否定するべきだという意味ではありません。神道天皇制そのものは、国家神道が成立するずっと前の古代から続いているものですから。
国家神道はせいぜい江戸時代末〜明治時代になって、本居宣長平田篤胤の思想の影響で成立したものに過ぎません。それは神道天皇制そのものではありませんし、たとえそれが神道天皇制の本来あるべき姿だと信じる人がいたとしても、それはその人自身の信念でしかありません。
国家神道がなくとも天皇制は十分受け入れられるものですし、神道もまた独自に続いていくことができるはずです。

前にも書きましたが、なぜ国家神道が排除されるべきかと言えば、それが明らかに政教一致の思想であるからです。そしてなぜ政教一致ではいけないのかと言えば、宗教は信仰にもとづくものであって、客観的な事実にもとづくものではないからです。
しかし政治は公共のものであって、その影響下の公民に対して強制力を持っているものですから、それは客観的な根拠にもとづいていなければならないはずです。というのは、そうでなければ、要は為政者の個人的な恣意を人々に強制しても良いということになるからです。
宗教を真面目に考えたことのある人なら分かるでしょうが、信仰の正しさは証明することが困難、究極的に言えば不可能なものでありますし、また信仰は深く個人的なことがらであって、他者から強制されることは耐え難いものです。思想信教の自由は人の最も基本的な自由の一つであって、これを抜きにしては人は決して自由でも幸福でもいられないでしょう。

日本の国家神道に相当するものは、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムでしょうが、例えばイタリアのファシズムなどはまだしも世俗的なものであって、それとは別にカトリック教会が宗教を担うものとして存在していたことを思えば、その精神的拘束力はまだ比較的少ないものと言えるかもしれません。(だからこそ、戦後はすぐ捨てることができたとも言えるでしょうか)
しかし国家神道はもっとはっきりした政教一致の思想であって、その拘束力はさらに強いもののようにも思えます。ヒトラーは「なぜ我々は日本人のように、祖国に殉ずることを最高の使命とする宗教を持たなかったのか!」と言って嘆いていたとか言います。(アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』)


この点で、例えば同じ旧枢軸国でも、ドイツとイタリアではヒトラームッソリーニが断罪されたのに、日本では昭和天皇が断罪されなかったことが不徹底と批判されることがありますが、確かにある意味、昭和天皇は彼らとは同列に並べ切れないところもあるでしょう。
というのは、ヒトラーはナチズムの、ムッソリーニファシズムの立役者でもあり、その思想は彼らと共に勃興し、彼らと共に衰退したのに対して、昭和天皇の場合は、昭和天皇よりも前にすでに国家神道が確立していて、昭和天皇自身もそれに縛られていたという面があるからです。(もちろん、日本のいわゆる天皇ファシズムとか軍国主義とか云われるものは昭和になってから急進的に発達したものではあるでしょうが、その基礎はやはり明治から来ているものです)
しかし、戦後は皇室ももはや国家神道に(少なくとも前ほどには)縛られなくなったわけですから、今上天皇日帝への回帰に抵抗を示しているのも当然だと言えるでしょう。今でさえ束縛の多い状態であるわけですから。

天皇のみならず、日本に住む人々もまた思想の自由の恩恵を受けているはずですが、自ら縛られたがり、それのみならず他人をも縛ろうとする人々はやはりいます。日本会議は神社で初詣に来た客に対してこんな改憲への署名活動をしていたそうです。



ここに現れている「家族を大事に」や「自然を大事に」といったうたい文句は、一見もっともらしく、それ自体を見れば間違っていないことでもありますが、ここで宗教が政治を取り込もうとしているということは看過できないことです。思想の自由、精神の自由を守りたければ、こうした動きには抵抗しなければなりません。
だから私は「国家神道死すべし」と言います。