empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

「自己責任」の範囲はどれ程か?

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世の中ではよく「自己責任」の思想が取り沙汰されます。
この自己責任思想こそ格差や無慈悲さなどの諸悪の根源のように言われることもありますが、一方では、じゃあこの世には自己責任など存在しないのかと言えば、またそうでもないでしょう。

それで、「自己責任」の範囲とはどれ程なのかについて、私なりに考えてみました。




結論から言えば、ある行為についての「自己責任」とは、狭い意味では、その行為が当人の能力の範囲内にある場合に当てはまることだと思います。

例えば、ある人が働こうと思えばいつでも働くことができて、働いた場合と働かなかった場合の結果を十分に予測できたのにも関わらず、あえて働かなかった、そしてそのために当人が貧困に陥ったという場合、それは自己責任だと言われても仕方ないでしょう。

一方で、病気やケガや障害などで、働こうと思っても働けない、または現状への認識が欠けていて働く必要性を認識できていなかった場合には、貧困に陥っても、それは自己責任だとは言えないでしょう。

(もっとも、実際の労働については、もっと複雑で様々な要素が絡んできますから一概には言えませんが、それについて一律に「自己責任」だと断じることから、劣悪な労働環境が放置されていたり、格差が拡大するといった問題が起こっているものだと思います)

また別の例で言えば、例えば犯罪の場合、ある人に盗みを行う能力があって、また盗まない能力もある、つまり「盗むことも盗まないこともできる」という場合、そして自らの行為の違法性をわきまえ自らの行為の結果を予測できる場合に、それでもあえて盗んだ、という場合、この人が罪に問われて罰を受けても、それは正当なことだと見なされます。

一方で、精神の錯乱のために自分が何をやっているか分かっていないとか、誰か、または何かに強制されて無理やり盗みを働かされたという場合には、この人は自分の行為について責任を問われない場合があります。(あるいは、情状酌量で罰を軽減されるなど)

ですから刑事裁判では、ある人の行為について、その人に「責任能力」があったか否かが問われます。
これは、人が責任を問われるのは、その人の能力の内にあることについてだからです。

ですから、人は自分の知らないところで起こった他人の行為については責任を問われませんし、予期しない事故や天変地異についても責任を問われません。それは、その現象がその人の能力を超えることだからです。


そして、「自己責任」とは、狭い意味では、こうした自己の能力の範囲内にある行為について当てはまることだと私は思います。

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またより広い意味では、自己の能力の範囲外のことでも、当人以外の誰もその責任を負えない場合には、それが自己責任とされることもあると思います。

例えば、スポーツの試合では、自分がベストを尽くしたとしても、力及ばず相手に負けることがあり得ます。
その意味では、試合の結果は自分の能力の範囲外のことではありますが、しかしその結果は試合に出た当人以外の誰も負えないので、この場合には「自己責任」ということになるでしょう。(もっとも、この場合は「そのスポーツをして、試合に出る」という決定を下した時にその責任を負っていると言えるかもしれませんが)

またこれと同じ例では、たまたま出かけた地域で災害にあった場合とか、予期せぬ犯罪に捲き込まれた場合とかも、他の人がその責任を負えるわけではないので、広い意味では自己責任と言えるかもしれません。


で、以上のようなことが「自己責任」の範囲だと思いますが、やはり本来の意味では、自己の能力の範囲内にあることこそが自己責任だと思います。


ですから、世の中の一切のことについて「それは自己責任だ」と見なす考え方は、「自分が頑張りさえすれば万事どうにかなるはずだ」という、自己の能力への過大評価に基づいている考え方だと言えます。
その意味で、これは自己中心的な考え方が行き過ぎたために起こった現象で、前に書いた「民主制の社会で自由が行き過ぎると、かえって独裁に陥ってしまう」という現象に通じることかもしれません。


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こうした自己責任論は、大企業の経営者などのいわゆる「成功者」によって唱えられていることが多いように思いますが、こうした人が自己責任論を唱えるのは、自分が成功したのは自分が何らかの点で恵まれていたからだということについて無自覚になっているか、あるいはそれを自覚しながら、社会に対して責任を負わずに済むためにそう言っているものと思われます。

というのは、万事を自己責任だとみなせば、困窮している他人についても、それは自己責任なのだから自分でどうにかしろと突き放して、その人の困窮について責任を負わなくて済むからです。
これは、社会的に地位のある恵まれた人が、恵まれない人々を保護して社会貢献するべきだという、いわゆる「高貴な義務」(ノーブレス・オブリージュ)を逃れるための手段となり得ます。

さらには、単に経営者などの富裕層に限らず、もし政府が率先して自己責任論を唱えるとしたら、それは政府が「国民の面倒を見る」「公共の福祉のために働く」という役割を放棄することにもつながりかねません。

そういうわけですから、自己責任論は自分で責任を負いきれる事柄については当てはまりますが、あまり拡大解釈して世の中に当てはめると、それは自分で自分の首を絞めることになると思う次第です。