empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

「反対するなら対案を出せ」という言説

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何かに反対、批判する人に対して「反対するなら対案を出せ」「批判するなら対案を出せ」などと言われることがあります。

今さらと言えば今さらですが、この主張は常に正しいわけではありません。

なぜなら「反対するなら対案を出せ」という主張が正しいのは、人々の間で「現状を変えなければならない」という前提が共有されている場合のことだからです。

ですから、例えば憲法改定について議論する際に、もし議論する人々が「今ある憲法は変えなくてはならない」という認識を共有しているのなら、ある人が改憲案を出し、別の人がそれに反対したとしたら、それに対して「反対するなら対案を出せ」と言うことは正当だということになります。

しかし、もし反対する人が「そもそも憲法を変える必要はない」と思っているなら、「反対するなら対案を出せ」と言うことは正当ではないということになります。その場合は、「変えない」ということ自体が対案だということになります。(変える必要がないという意見そのものの妥当性はさておき)
改憲の議論においては、こうした事態がしばしば見られるように思います。


一方で、例えば消費税増税に反対する政党が、賛成する政党に「反対するなら対案を出せ」と言われ、これに応えて「消費税を上げる代わりに大企業と富裕層に課税すればいい」と主張するのは、「今のままでは社会保障などの財源が足りなくなるので、どこかで税収をまかなわなくてはならない」という前提がこうした諸政党の間で共有されているからです。
この場合は「対案を出せ」という主張も正当だということになります。


さらに言えば、対案を出すのが正当である場合でも、「その時には対案が思い付かなくても、さしあたって相手の意見には反対する」ということは別に不当とは限りません。
例えば、少ない税収で年金をまかなわなくてはならないという前提を人々が共有しているとしても、誰かが「年金が足りなくなるなら、60歳以上の高齢者の半分を殺して年齢層の割合を調整すればいい」という意見を出したとしたら、その時には有効な対案を思い付かなくても、「それはさすがに駄目だ。論外だ」と言って脚下し、それからそれ以外の別の解決策を探しても不当ではありません。

そういうわけですから、対案を出さなければ最初に提案した者の意見がそのまま通る、というわけではないということになります。