empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

普遍的な道徳はあるか?

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世の中で倫理道徳とみなされていることには、時代や地域によって違いが見られるので、普遍的な道徳などは存在しない、時代や地域によって、また人によって「正義」は違うという考え方があります。いわゆる道徳的相対主義通俗的な言い方をすれば、「絶対の正義なんて存在しない」「正義の反対は悪ではなく別の正義だ」とかそういう考え方ですね。

しかし、道徳には時代や地域によって違いがあるとはいえ、また共通点も多くあります。例えば「人を殺してはいけない」とか「嘘をついてはいけない」とかは大体どの時代や地域でも共通で、重要度の違いはあるとはいえ、このような道徳が存在しないところを私は知りません。なので、そこにはある程度の普遍性もまたあると思われます。

で、こうした道徳の根拠として考えられるものには様々ありますが、一つには「信仰」があります。仏教における不殺生とか不邪淫とか、キリスト教の「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」とかそういうものですね。また、こうした創唱宗教(開祖がいる宗教)とは別のいわゆる自然宗教(開祖がいない宗教)にもこうした道徳が存在することは、フレイザーの「サイキス・タスク」や、古代中国や古代ギリシャの文献などからもわかります。
現代においては宗教の重要度は昔に比べると低下していますが、信仰による事柄は正しいとは断言できないとはいえ、また間違いだとも断言できない類いのことですから、ある程度は傾聴するべきものでもあるでしょう。


また別の根拠としては、これは先の要素とも重なることがありますが、「伝統」ということがあります。伝統的にその社会で悪だとみなされていること、罪だとみなされていること、恥だとみなされていること、というのはどの社会にもあります。また逆に義務だとみなされていることもあります。
成文法が存在しない社会では、こうした慣習の積み重ねが法律としての役割を持っていることがあります(慣習法)。また成文法があっても、それと共存していることもあります。英国では今でも慣習法が重要な要素になっています。

で、この場合、その伝統の正しさは何によって確かめられるのかと考えてみれば、それは「経験」によって確かめられると言えるでしょう。
つまり、これまでその社会ではその慣習を守ることによって人々の生活とその社会が成り立ってきた、という一つの「実績」があるわけです。もちろん、そういう実績があるからといってそれまでが正しかったとは限らないし、またそれよりも良いあり方がないとも限らないのですが(歴史上、社会に変革が起こってきた時は常に前の時代の慣習を変えてきたわけですし)、ともかくも、「これまではそれで何とかやって来た」ということで、人々の経験に裏打ちされた一定の信頼性はあります。

またそこには、一見何の意味があるのか分からなくても実は価値があるもの、ということもあり得ます。(この点は伝統以外のことにもあり得ますが)
例えば、多くの社会では近親相姦が禁忌とされていますが、これは近親相姦を繰り返すと子孫に遺伝的な障害を誘発する可能性が高まるため、それを防ぐための禁忌だと説明されることがあります。古代の人々は遺伝について詳しくは知らなかったはずですが、多分経験によってこうした禁忌を立てていったのでしょう。


また別の根拠としては、「理性」ということがあります。
例えば自然法思想で言えば、「人には互いに協力し合う性質がある」→「互いに協力し合うことが人にとっての幸福につながる」→「だから人は他者に危害を加えてはならない」といったものです。
現代の自然権(人権)思想もこの延長線上にあって、人はそれぞれの生命と財産と自由を確保しようとするが、社会を持たない状態では互いに攻撃しあってそれを確保できない、だから社会を作ってそれを確保し、また幸福の追求をする、だから社会の構成員は互いの生命と財産と自由などの権利を侵害してはならない、といった思想があります。

で、こうした諸根拠と歴史上の例からすると、次のような道徳が普遍的なものだと思われます。

・人を殺したり傷つけたりしてはならない
・強姦や不倫などの不正な性行為をしてはならない
・他者の財産を盗んだり奪いとったりしてはならない
・嘘をついてはならない

これらは仏教の五戒のうち不殺生戒、不邪淫戒、不偸盗戒、不妄語戒にだいたい相当します。(五戒のあと一つは不飲酒戒❨酒を飲んではならない❩)
またユダヤ教キリスト教十戒における「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」「偽証するなかれ」にも相当します。またイスラム教や道教ヒンドゥー教にもこうした道徳があります。そしてこうした道徳が基礎的なものであることは、もしこうした道徳がなければどんな社会も立ち行かないだろう、ということを考えてみれば分かるでしょう。

またこの他には、神を敬うべきだという道徳観もあります。ある意味ではこれのほうがより根元的な道徳ともいえます。これは現代ではあまり重視されない観念でもありましょうが、伝統や自然といったものも突き詰めれば超自然的な起源をもっていると考えられるものですから、これもある程度は尊重すべきことかと思います。


日本の例について言えば、隋の煬帝の時代(西暦600年頃)の中国から当時の日本(倭国)を訪れた人の見聞録が「隋書倭国伝」にありますが、そこにはこんな記述があります。

「その(倭の)習俗は、人を殺し、強盗及び姦する者は皆死刑とし、盗む者は盗んだものを計って弁償させ、それだけの財産がない者は身を落として奴隷とする。その他はことの軽重により、あるいは流刑としあるいは打ち叩く刑に処す。
訴訟を問いただす時に、罪を認めない者があれば…小石を煮え立った湯の中に置き、競い合う者らにそれを探らせて、『よこしまな者は手がただれるであろう』と云う。あるいは蛇を甕の中に入れてこれを取らせ、『よこしまな者は手を咬まれるであろう』と云う…」

熱湯の中の小石を探らせる云々の記述は、日本書紀にある「盟神探湯(くかたち)」の記述とも通じます。日本書紀允恭天皇紀では、この頃自分の氏姓を偽る者が多く、偽って皇族を名乗ったり天孫を名乗る者たちがいたので、人々に沐浴斎戒させてから熱湯の中に手を入れさせた。そうすると本当のことを言っている者たちは無事だったが、偽りを述べていた者たちは火傷を負ったので、これ以降は氏姓が定まった、とされています。(火による罪の審判は中世のゲルマン族などにも例がある)

そしてこうした記述からすれば、古代の日本にも、人を殺し姦通し盗みを働いてはならない、また嘘をつく者は超自然の力によって罰せられる、という道徳観が存在していたことが分かります。もちろん盟神探湯のごときは今そのまま受け入れられるやり方ではありませんが、倫理観としては今に通じるものがあります。

そんなわけで、こうした道徳は信仰によっても伝統によっても理性によっても支持されているわけですから、私たちはこうした道徳を保っていくべきだと思う次第です。