empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

(社会的)弱者という言い方

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貧困だったり病気や障害があったりする「社会的弱者」のことを、単に「弱者」と言うことがあります。
それで福祉を切り詰める政策を「弱者切り捨て」と呼んだりもしますが、個人的にはこの弱者という言い方はやめたほうがいいと思います。

なぜなら、単に「弱者」というだけでは、それが貧困なのか病気や障害なのか高齢者なのか外国人などの少数派なのかといった、「何」が問題なのかが分からなくなるし、また言う側にはそのつもりがなくても、「弱者」と言うことでどこか見下しているような印象を受けかねないからです。
そしてこう呼ばれる側のほうでも、弱者と呼ばれることに反感を感じて、それを自分に当てはめて考えなくなるかも知れないからです。

なので、それを言うなら貧困とか病気とか障害とか個々の事例で言うほうがいいと思いますし、あえてまとめて言うなら「社会的弱者」と言うほうがいいだろうと思います。


ところで、いわゆる新自由主義のような経済格差を生み出す政策を「弱者切り捨て」「弱肉強食」と呼んだりもしますが、これもあまり正確な言い方ではないように思います。

なぜなら、この場合の「強い」「弱い」とは何のことなのかと言えば、それはつまるところ「経済力」であり、さらに言えば「商才」だからです。

もちろん商才は生きていく上でとても重要な能力の一つではありますが、別にそれが「能力」の全てというわけでもありません。

世の中にはスポーツは得意だけど商才はないとか、学問には長けているけど商才はないという人もいるでしょう。しかしそれは商才とはまた別の種類の「能力」なのです。
しかし、単に経済力のみでざっくり「弱肉強食」と言ってしまうと、商才だけが価値あるもので他は無価値のような印象にもなりかねません。

最近、大学の医療の研究に「企業のニーズに合わない」という理由で予算がつかなくなることがありましたが、そのように企業にとっての需要だけで研究を取捨選択することで、社会はより良くなり人々の利益になるかと言えばそうでもないでしょう。ここにも、ざっくりした「強さ」「弱さ」という言い方の弊害が、一部現れているのかもしれません。