empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

人権と「思いやり」

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よく、「日本では人権が“思いやり”とか“みんな仲良く”といった概念と混同されてしまう」という話を聞きます。

私もある程度はそういう傾向があるように思います。


人権と思いやりの違いについて言えば、人権とは権利の一種であり、権利とは法的な概念です。
ですから、「人権」という時には、それは法的に「守られなくてはならないもの」であり、社会の側にはそれを守る義務があり、人がそれを侵害された時には、その人は異議を申し立て、公正な裁判を受ける権利などがある、ということになります。


一方で、「思いやり」というものは、確かに「良いこと」ではありますが、別に義務ではなく、「守っても守らなくてもいいもの」です。
ですから、「思いやり」という場合には、社会にはそれを守る義務もなく、人はそれが失われても異議申し立てはできない、むしろそんな申し立てをすれば「厚かましい」と言われかねないものとなります。
そんなわけで、こういう「思いやり」は、人身の保障としてはとても頼りないものとなります。というのは、それは思いやりを与える者の厚意によって成り立っているので、彼が心変わりしてそれを与えるのをやめてしまえば、いつでも失われ得るものとなるからです。


そんなわけで、人権を思いやりと混同するのは危ういことですが、思うにこうした混同が起こるのは単に社会に法的な観点が薄いからではなく、もっと別の理由があるように思います。



私は基本的に、人権という時には、それをまず「自分自身の」権利のこととして考えます。

そして、それが守られてこそ、他の人の権利も同じように守ろうと思います。

言ってみれば、ある社会の中で自分の身の安全が保障されていてこそ、自分もまた他の人の身の安全を守るべきだと思います。

そして自分としては、こうした権利が認められることが、社会に求める最低限のラインだと思っています。
というのは、もし自分の身の安全さえ保障されない社会ならば、そんな社会はくたばれと思うからです。


しかし、人権という概念に否定的な言論を見ていると、どうもこうした人たちは、人権というものは「自分のもの」というより、「他人に与えるもの」だと思っていて、従って、こうした概念を認めてしまうと、それだけ余計に他人に配慮しなくてはならなくなるので面倒だ、と思っているような印象を受けます。

多分こうした違いが出てくるのは、私が自然法思想を基本にして社会を考えているのに対して、こうした人たちは何か別の観念を基本に社会を考えていて(多分それは上下関係や親子関係を基調にした儒教的な社会の観念でしょうが)、人権やそれに類するような諸権利はそこにつけ加えられた「おまけ」のように考えているからだろうと思います。(違ったらすみません)

確かにこうした考え方でいけば、人権というものも一種の「思いやり」とか「お気持ち」ぐらいの位置づけになるだろうと思います。


確かに、人がある社会の中で、その社会の伝統的な秩序によく適合できていて、社会的地位も高くて、お金持ちで、権力もあって、健康にも恵まれている、というのであれば、人権の概念など存在しなくても、多分あまり問題なく生きていけるでしょう。むしろそんなものがない方が、他人を自由に酷使できるのでその人にとっては望ましいかもしれません。

しかし、これらのうちのいずれか、もしくは全てが欠けている人にとっては、法的な人権の保障が最後の命綱になる、ということだってあり得るわけです。いや、そうでない人にとっても、本来それは最後の保障なのですが。

そんなわけで私も人権を求めていますが、私が人権思想を支持するのは、まずそれが自分自身の生命と財産と自由を守るための「法的な」保障だからです。

そしてその権利があるということは(実際に守られているかどうかはともかくとして、法的には)、違法な奴隷労働を強いられなくてもいいということであり、上司の命令であっても不当な要求には従わなくていいということであり、犯罪に遭ったらその補償を求め公正な裁判を受ける権利があるということであり、何かの宗教を信仰することを強いられなくていいということであり、言論を統制されなくていいということであり、自分の財産を正当な理由なく政府に押収されなくていいということであり、政府を批判しても秘密警察に逮捕されて拷問されたり処刑されたりしなくてもいいということなのです。
私はこれを不当な要求だとは思いません。



まぁ「思いやり」という観念も、それはそれで有効だろうとは思いますけどね。

というのも、皆が思いやりを持つようになれば、社会全体も思いやりある社会になり、自分もその中で良い思いをできるだろうからです。
しかし、皆が思いやりを持たず他人に危害を加えようとするようになれば、社会全体も危険な社会になり、自分もその中で苦しい思いをするでしょう。

情けは人のためならずと申しますし、こうした道徳も一つの拘束力ではあります。

例えば宗教上の戒律としての「慈悲」のようなものであれば、それはやってもやらなくてもいいことではなく、一つの「義務」ですから、宗教的道徳が強い規範となっている社会ならそれも人身の保障になるかもしれません。

しかし現代社会ではやはり「法の支配」が建前なのですから、そういう道徳だけではやはり不安定で、人権も法的に保障されるべきだと思います。