世の中では「権利と義務はセットである」とか「義務を果たさないのに権利だけ主張するな」とか言われることがある(あった)と思います。
そしてこの物言いには、「権利は義務と引き換えに得られるものである」という考えが含まれているものと思われます。
これに対しては、「権利と義務がセットであるというのは、他者の権利を別の他者が尊重する義務を負うという意味でセットである」と言われることもあります。
それはそれで正しいとは思いますが、普通この「権利と義務はセット」というのはそういう意味ではなく、ある個人の一身上の権利と義務として言われることだと思われます。
すでにあちこちで言われてますが、これについて私の意見を言いますと、「一部の権利は義務と引き換えであるけど、全ての権利がそうではない。特に基本的人権についてはそうではない」と思います。
例えば、世の中には労働契約というものがあって、働く側と雇う側が相互に契約を結び、これだけの仕事をするのと引き換えに、これだけの賃金を払うという契約をします。
この場合、働く人はもちろん実際に契約の通りに働く義務がありますし、またそれと引き換えに賃金を得る権利があります。ですから、働いたのにお金が得られなければそれは不当なことですし、逆に働いていないのにお金を得ようとすればそれもやはり不当なことになります。
ですから、この場合は確かに「この権利は義務と引き換えに得られる」と言えるでしょう。
また、売買契約というものもあり、人がお金を払うのと引き換えにある商品を買うという契約をする場合、もちろんこの人は実際にそのお金を払う義務がありますし、払ったならばその商品を受け取る権利もまたあります。お金を払ったのに商品を受け取れなければそれは不当なことですし、逆にお金を払わないのに商品を受け取ろうとすればそれも不当なことです。
この場合も、権利は義務と引き換えであると言えるでしょう。
そして、こうした権利というのは主に他者との取り引きによって得ているものだと思います。
一方で、いわゆる「基本的人権」と言われるところの、人身の自由、思想信条の自由、財産権、また他者の権利を侵害しない限りでの言動の自由といったものは、これは「生まれつき」の権利であって、何かの義務を果たすのと引き換えに得ているわけではないと思います。
この権利については、上に述べたように「他者の権利を尊重する義務がある」というわけで、社会の中ではこれによって限定されますから、この義務と引き換えではないかと思われるかもしれませんが、これはこの権利が限定される仕方ではあっても、権利自体をそこから得ているというものではないと思います。
というのは、仮に無人島などで一人だけで生きていて、他者とは関わりたくても関われないという人がいたとしても、やはりこの人は、自分自身の生命や思想信条や財産については、それについての権利があると思うだろうからです。
それにまた、「他者の権利を尊重する義務」にしても、それはすでに他者に権利があるということを前提にしているのであって、他者と自己との持つそうした権利はどこから来ているのかと言えば、それは誰か他者から得ているのではなく、自他共に由来する自然から得ているというべきでしょう。だからこそ、「天賦人権」(自然権)というのだと思います。
あえて言えば、この世に存在することと引き換えに得ているとも言えるかもしれませんが、それも誰か他者から得ているのではなく自然(または神)から得ているというべきでしょう。
(さらに言えば、もし人がこうした個人として尊重される権利を持たないのだとしたら、上に述べたような売買契約のごときものにしても、なぜそのような他者との契約を守らなければいけないのか、とも言い得るでしょう)
そんなわけで、一部の権利は義務と引き換えであるけど、全ての権利がそうではない、特に基本的人権はそうではないと思います。