empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

権威主義、教条主義とは何か?

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権威主義とは、一般的な意味では何らかの権威をよりどころとして判断し行動することを指すと言います。
この意味での権威主義は、極端に走らなければ多少は必要なことだと思いますし、それが有効に働く場面というのも多分あるでしょう。

一方で、社会的、政治的な意味で使われる「権威主義」は、民主主義に対立する概念として使われることがあります。
よく権威主義国の例としてあげられるのは中国やロシアですが、民主主義国といわれる国々の中でもこの傾向が見られると言います。


政治体制としての「権威主義」は、民主主義と全体主義の中間の形態だと言われることがあります。
ジェトロ・アジア経済研究所によると、この分類は「どの程度多元主義的か」による分類で、多元的な政治主体を認める民主主義と、単一の政治主体しか認めない全体主義(ファシズム)の中間で、軍や政党などの支配的な政治主体の他に別の政治主体の存在を許しはするけれど、その結社や活動には強い制限がかかっている状態だと言われます。

このことは、中国における政治的少数派への弾圧やロシアでの野党指導者への迫害を見れば納得できるものがあります。

結社の自由、言論の自由といった市民的自由を保障し、かつ参政権を全国民に平等に付与して、もって無限の多元性を許容するのが民主主義です。民主主義のもとでは、政党や労組、業界団体などさまざまな組織が、それぞれの利益に適った政策や法律の実現を目指して互いに競合しています。異なる意見を調整して公的な決定を下す役割は、国民の幅広い支持を得た者(議員や大統領)が担っています。逆にいうと、権力者が広範な支持を得ていることを担保する仕組みこそが民主主義の要諦であり、その仕組みとは、自由で公正な選挙による支持獲得競争です。

民主主義の対極に位置するのは、特定の国家目標とそれを実現するためのプログラムを持ち、プログラムの立案を全面的に担う単一の政治主体しか存在を許されない全体主義です。全体主義においては、組織指導者間の権力闘争はしばしば発生するものの、社会的利益の多様性を反映した複数の政治主体間の競争は、原理的に存在しません。全体主義の例としては、ファシスト政権期のイタリア、ナチス・ドイツソ連毛沢東期の中国が挙げられます。

民主主義と全体主義の間の中間形態が権威主義であり、その特徴は「限定された多元主義」です。より具体的には、支配的な特定組織(政党、軍など)とは異なる政治主体の存在を許容する一方、結社や政治活動に強い制限を課す政治体制を指します。現在世界に存在する非民主主義体制の大部分は、権威主義体制に分類することができます。

(出所 ジェトロ・アジア経済研究所https://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Theme/Pol/Institutions/200608_nakamura.html)


もっとも、こうした民主主義と権威主義を対立させるような分類は西洋の価値観の押し付けだという論者もいますが、ロシアや中国で起こっている政治的迫害を考えれば、少なくとも私はそのような体制の中で生きたいとは思いません。


一方で、思想傾向としての「権威主義」は、元々は第二次大戦時にナチスを支持した人々の精神を分析する中で見出されたもので、それはまた全体主義的な傾向だとも言われますが、ナチスのような右翼団体だけでなく、左翼団体にも同じような精神傾向がしばしば見られると言います。
当時の日独伊にしても、ソ連や中国のような社会主義圏にしても、こうした傾向は見られるものでしょう。

https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A9%E5%A8%81%E4%B8%BB%E7%BE%A9-60254

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
権威主義
けんいしゅぎ
authoritarianism

 …権威主義を特徴づけるものは次の点である。

(1)判断の根拠の外在性 それは権力者であり、恭順の対象としての権威として、つねに自己の外部に存在する。

(2)パーソナリティーの統合の不在 欲望と情動はつねに不安の影に脅かされている。

(3)サド・マゾヒズム 自分より「上位」の者に対しては無条件的かつ被虐的に服従し、自分より「下位」にある者に対しては全面的かつ加虐的な支配と攻撃の態度をとる。

(4)ステレオタイプ 社会は単純な縦の上下関係によってとらえられ、社会現象はすべて善悪、優劣、強弱、白黒に両極化されてとらえられる。

 それは、また、社会構造のなかでの客観的な位置の不安定性および自我の弱さに適合する社会的態度といってよいであろう。…

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
権威主義
けんいしゅぎ
authoritarianism
政治の場では,支配関係を価値の優越者 (上級者) と下級者との縦の関係において構成していこうとする秩序原理および行動様式をいう。フロイト左派の社会心理学者の一人であった T.アドルノは,権威主義ファシズム的兆候ととらえ,そこには力に対する追従・服従サディズム的懲罰や弱い者いじめとの奇妙な複合がある,としている。

世界大百科事典 第2版の解説
けんいしゅぎ【権威主義 authoritarianism】

…人々は権威者に自発的に信従するだけでなく,自己を対象に積極的に同一化することによって,自己に欠如していると思われる威信を獲得し,補うことができると錯覚することがある。そこでは,権威者の価値体系に疑惑をもったり,不同意であることは反逆とみなされ,大部分の人から冒瀆(ぼうとく)であり罪悪であるとされる。

権威主義は民主主義に対立するものと見なされることもありますが、ここで言われるような権威主義は、特定の政治思想というよりは一種の精神的な傾向であり、態度であるようにも思えます。
とはいえ、これが高じて政治や社会を規定するようになれば民主主義を破壊しかねないものだとは思います。特に、こうした態度は民主主義の前提になっている自由や平等を否定するものであって、形を変えた専制主義であるようにも思えます。

こうした態度によって統合されたパーソナリティ(性格)を権威主義的パーソナリティ(権威主義的性格)とも言いますが、そこでも上位者への服従と下位者への攻撃、また教条主義や「認知の曖昧さへの耐性」の低さが特徴として挙げられています。
特に教条主義は、権威主義的性格の中核的な概念だと言われることがあります。

https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A9%E5%A8%81%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%9A%84%E6%80%A7%E6%A0%BC-257460

最新 心理学事典の解説
けんいしゅぎてきせいかく
権威主義的性格
authoritarian personality

権威主義authoritarianismとは,上からの命令や指示を,善悪・正邪の判断よりつねに優先させる考え方を指す。また,そのような認知傾向の強い性格を権威主義的性格とよぶ。権威主義が注目された大きなきっかけは,第2次世界大戦での枢軸国の政治風土である。ドイツ,イタリア,日本は,いずれも全体主義国家であり,個人の幸福や思想よりも,国家の全体的利益が優先された。…

アドルノらの権威主義的性格研究では,権威主義的性格の下位概念として,ファシズム的性格,教条主義的性格,因習主義的性格,反ユダヤ主義的性格,自民族中心主義的性格,形式主義的性格を導出し,権威主義的性格はそれらを統合する性格概念だと考えられた。当初,これら下位概念の中でもファシズム権威主義的性格概念の中核であると考えられたが,その後,左翼的国家や左翼的団体に権威主義が存在することがしばしば顕著であることが確認されるなどしたために,現在では,教条主義的性格が中核概念であるとの理論修正が広く受け入れられるようになった。

 権威主義の研究は,前述のように戦争という具体的な事件を契機として行なわれたものであるが,現代社会でも形を変えて存在しつづけていると考えることができる。男尊女卑的な保守的な性役割観,会社組織における過度の上意下達傾向,社会の問題をマスコミや官僚など単一の問題につねに結びつけて論じる考え方などは,形を変えた権威主義と考えられる面が強い。

 性格の権威主義的傾向と,より低次の認知傾向との関連を調べた研究では,権威主義的性格が「場への依存性」が高い,認知の曖昧さへの耐性が低い,認知的複雑性が低い,などの研究結果が報告されている。そのような観点から,権威主義的傾向は,曖昧さの認知能力の欠如の結果,特定の教条やカリスマ的人物に価値判断を依存する傾向であると考えられている。ただし,これらの低次の個人差測定の技術的な評価が多義的である分,この見解を受け入れにくいとする立場もまた表明されている。


教条主義とか「認知の曖昧さへの耐性」とかはこれだけだと何のことか分かりにくいですが、関西学院大学の論文では次のように言われていました。

つまり、権威主義的、教条主義的な傾向が高い人々の精神の根底には「不安、不信」があり、自己を含めた人間全般に対する不信感や、自我が未発達であるために自分の持つ衝動や攻撃性が他者に投影されたりして、不安定で危険や敵意に満ちた世界という否定的な世界観を持つようになる。

その反動で、不安を克服するために特定の人物や特定の思想を絶対的な権威としてそれに従い、またその権威と自己を同一化させようとし、その権威が肯定するものは自分も肯定し、その権威が否定するものは自分も否定して、教条主義的な敵意を向けるようになる。

そして、自分がすでに持っている認知のカテゴリーに当てはまらないような「曖昧」な事柄に対しては、その曖昧さを受け入れることが出来ないで、自分の知っているカテゴリーに無理に当てはめようとするのだと言われていました。
この点は、上で引用した何でも善悪や白黒で分けようとする「ステレオタイプ」と通じるところでしょう。

そしてこうした傾向は、過激な右翼団体や左翼団体のような政治的過激派にも、ISIS(イスラム国)のような宗教的原理主義にも共通して見られるところだと思います。


こうした権威主義教条主義の高まる原因としては、人の言うように精神的な不安定さや自我の未発達があるのでしょうが、さらにその原因としては、個人的な不安の理由と共に、その周囲の社会の不安定さや社会の中での自己の立ち位置の不安定さというものがあるのだと思います。

個人的な理由による不安は一概に何が原因だと言うことはできないでしょうが、社会については、世の中の変動にともなって社会の不安定さが増したり、伝統的な社会の解体にともなって社会の中での人の立ち位置が流動的になることが理由になっているのだとしたら、それは現代において権威主義が高まっていることと無縁ではないと思われます。それは第二次大戦時の日独伊や旧社会主義圏の事情にも通じるところでしょう。


そんなわけで、権威主義教条主義には危険性がありますが、だからといって、人が特定の思想信条を持つこと自体を否定するべきかと言ったら、私はそうは思いません。
大抵の人は何か思想信条を持っているでしょうし、それは普通のことでしょう。しかし、単にある思想信条を持つということと、自我の不安定さを補うために過剰にそれに入れ込むということとはまた別のことだと思います。それは言ってみれば、ただの「信」と「狂信」の違いのようなものでしょう。

権威主義教条主義の根底にあるという不安や不信にしても、実際世の中には危険な事柄というのはありますし、何でも疑わず受け入れるべきかと言ったらまたそうでもないでしょう。しかし、現実の脅威の他に、自分が思い込んでいる脅威というものもまたあるのであって、そこを見極めなければかえって別の危険に落ち込むということになりかねません。