empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

個人の努力と社会

誰かが社会に対する批判を言うと、それに対して努力もせずに他人のせいにしていると批判されたり、いややっぱり社会が悪いじゃないかと言われたりすることがあると思います。

 

私は基本的に、人は誰しも生きていくうえで努力が必要だと思ってますし、そこを否定するつもりはありません。なので、もし努力すれば結果がついてくるのなら、それはもう個人で努力するべきだろうと思います。

しかし、もし努力しても結果がついてこないなら、そこには個人の努力以外に別の障害があるかも知れませんし、その場合は結果を出すためにはその障害をどうにかしないといけないかも知れません。そしてその障害の中に社会の問題があるとしたら、その場合にこれが問題になるものだと思います。(もっとも、その障害が取り除かれたとしても、やはり個人の努力は必要でしょうが)

例えば過去に一部の医大で女子の受験者が不当に減点されていた例などはこれに当たるでしょう。

 

もっとも、どの程度が個人の努力の問題でどの程度がそれ以外の問題かは、人によってだいぶ事情が違うので一概には言えません。私も時間の経過やその時の状況次第でどちらに重きを置くかが変わってます。もちろん、その比重についての判断を誤るということもあり得ますし。

 

世の中には人に頼らず自分で頑張りすぎたせいで心身を壊すという事例もありますし、自助努力が必要なのはもちろんですが頼るべきところでは人に頼るということも必要でしょう。その見極めが大事なんだろうと思います。

無題

カルト宗教への法的な対策は、信教の自由があるので内心の信条自体を規制するのではなく、外的な行動が他者や社会に具体的な損害を与える場合にそれを規制するものだと言われます。

もっとも、これは政治の領域での話であって、宗教の領域では伝統的な宗教が新宗教についてそれは正統派なものではないと判断することはありますし、部外者にとってはそれがその宗教の正統性を判断する有力な根拠になるでしょうが。(伝統的な仏教やキリスト教が仏教系の新宗教キリスト教系の新宗教を非正統的なものだと判断する場合のように)

 

政治的な過激派についても多分同じようなことが言えるでしょう。

つまり、やはり内心の自由がありますので政治思想自体が規制されるというわけではなく、それにもとづいて行われる外的な行動が他者や社会に具体的な損害を与えるものだから規制されるということです。

 

正直私も、仮に他人が差別主義者だったりファシストだったりスターリン主義者だったりしても、それが単に当人の思想にとどまっていて具体的な実害がないなら別にどうでもいいくらいに思ってます。(そういう人と友達になれるかと言ったらまた別の問題ですが)

 

しかしこうした政治思想は単に内心の問題にとどまるということはあまり期待できず、やはり現実に実現されることを求めるものだと思うし過去にその実例もあるので、だからこそその実害を防ぐことが必要だしまた思想的にも反対されるものだと思います。というのも、それが多数派になってしまうと実害を防ぐ仕組み自体も壊されるかもしれないからです。

 

しかしソ連のようなプロレタリア独裁の体制や、逆に反共主義ファシズムの体制に見られるように、対立する意見を認めず複数の政治的主体を認めないというのはやはり独裁への道だと思うので、他者の権利を侵害しない限りでの政治的多様性というのはやはり必要だと思いますしそれが多党制の意義の一つでしょう。

しかしこうした多様性が確保されるためには、思想良心の自由や言論の自由や人身の自由といった個人の権利が前提にないといけないので、やはりそこは基本的なものだと考えます。

政治との付き合い

政治はやはり扱いが難しい分野で、扱いを間違うと争いやトラブルの原因になりやすいものだと思います。

 

しかし政治に動かされる社会に住んでいる以上はそれと無関係でいるということもできないので、結局は適切に上手く付き合うしかないだろうと思ってます。

 

もっとも、どういう付き合い方が適切で上手いやり方なのかは人が置かれている状況次第でだいぶ違ってくるので一概には言えません。

仮に自分が現代のガザやウクライナミャンマーのような環境に住んでいたら、その中で上手く政治と付き合うというのもそう簡単ではないだろうと思います。

とはいえそういう状況下でも、より適切な判断とそうでない判断はあるはずだから、結局は状況と判断力次第というところはあるかと思います。正直そこは運の要素も大きいでしょうが。