empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

フィリピンのフェイクニュース事情

以前の記事でも書きましたが、フィリピンの政治の世界ではSNSなどを通じてすっかりフェイクニュース(偽情報)が定着して政治を動かすようになっており、今回も前回も大統領選挙ではフェイクニュースが組織的に大量に流されていたと言われています。

また、フェイクニュース戦略もだんだん巧妙化しており、大量の匿名アカウントが発信するというような分かりやすいものではなく、有名人が報酬を受け取って発信したり、広告会社が秘密裏に行っていたりする、また偽情報も分かりやすい大げさな嘘ではなく、真偽の境界のギリギリを攻めるような分かりにくいものになっている、また偽情報で攻撃されるだけでなく、現実の物理的な暴力で死者も出ているなどと言われていました。

さらには、偽情報を活用してきた政権側だけでなく、元々は偽情報を非難していた野党側も偽情報を使うようになったとも言われます。
しかし、野党側も偽情報を使うようになったにもかかわらずそれで当選したわけではなく、結果には結びついていないとも言われていました。

もちろん偽情報はそれ自体悪いことですが、仮に偽情報を使ったとしても、体制側のような組織力や資金力がないと活用するのは難しいということなのだろうと思います。

偽情報に対抗するには、すぐに結果が出なくとも、地道に事実に基づいて活動していくしかないのでしょう。それは日本でも同じことだろうと思います。

中絶手術

(この件についてはすでに進展がありましたが、その前に書いていたのでそのまま投稿しました)

アメリカの一部の州では中絶手術が違法化されたり、過去に中絶を合法化した裁判所の判決がひっくり返されるかも知れないという話もあって、中絶の権利に関して他国のことながら憂慮すべき事態であるように思われます。
「中絶の権利を覆すな」アメリカ各地で大規模デモ 禁止派と応戦も:朝日新聞デジタル
(2022年5月15日の記事)


ところで、こうした動きの背景にはいわゆる「保守的」なキリスト教の団体の中絶に反対する運動があるようで、トランプ元大統領がこれを利用して政治的な支持を得るためにこの運動に乗っかっているようでもあります。トランプ自身はとうてい模範的なキリスト教徒には見えませんが。


自分としては、ある宗教上の信条として中絶が罪とみなされるならそれは仕方がない…というか、それは人間の意思によっては変えられない、あるいは容易には変えられないことだと思います。宗教には宗教の論理があり、その固有の領域があるわけですから。

しかし、政治がその信条によって支配されるべきではなく、政治の領域では政治の論理に従って独立してことが行われるべきだと思います。それが政教分離の意義の一つだと思います。(もっとも、これらの領域が必ずしもはっきり分かれているとは限らず、殺人や盗みなどが両方によって禁じられるように重なる部分もあるとは思いますが)

ですから、仮に中絶が宗教的な罪であっても、それは政治によって罰せられるべきではないと思います。もしそれが罪であるならば、それは宗教の領域で罰せられるべきであろうと思います。


日本においても、一部の宗教団体が政治に食い込もうとしているようですが、仮に政治が宗教に支配されるようになれば、それと信条を同じくしない人々は思想良心の自由も行動の自由も脅かされるし、また信条を同じくする人々も、そこから脱することができなくなるわけですから、思想良心の自由を含めた市民的自由を守るためには政教分離を守る必要があると思います。

信教の自由


信教の自由とは人が何かの信仰を持つ自由であり、また持たない自由でもあります。


もしかしたら、信教の自由とは単に特定の宗教を信仰する自由であるから、無宗教者や無神論者には関係ないと思われることがあるかも知れませんが、自分の信じることを信じる自由とは、また自分の信じないことを信じないでいい自由でもあります。

ですから、この権利は何かを積極的に信じる人だけではなく、信じない人にとっても必要不可欠な権利であると存じます。

というのは、もしそれがなければ、政府が指定した特定の宗教のような、誰か他者が信じる宗教の信条に従うことを強制されることになりかねないからです。

またもちろん、それとは別の特定の宗教を持つ人にとっても、そうなれば自分の信じない宗教に従うことを強制されることになりますし、また同じ宗教の人にとっても、あとから宗旨を変えることが不可能になります。

そしてそうなれば、その宗教の内容しだいで、思想良心の自由はもとより、言論の自由も行動の自由も学問の自由も失われるということになりかねません。


ですから、信教の自由は最も根本的な自由の一つであって、他の諸々の自由の基礎になっているものだと思います。


これは政教分離の原則とも表裏一体のものでしょう。
もっとも、政治や社会が全く宗教と関係を持たないということは現実にはまず無いことでしょうが、少なくとも個人が自分の信仰を持ち、また持たない自由は確保されていなければならないと思います。