empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

家庭と企業と国家の違いとか

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儒教的価値観の影響が強い社会では、家族での人間関係を元にして、そのやり方で国家や企業も運営される傾向があるように思います。

孟子の言うように、子は親を敬い、親は子を慈しみ、こうしたやり方で身近な家族を治め、それを一般の人にまで及ぼして国家を治め、さらに広く及ぼして天下を治める、というわけです。
さらにまた、君主のほうでも自分の親を敬い子を慈しむと、それに習って人民のほうでも家族を大切にするようになるだろう、というわけです。
それで、こうした文脈では君主や官吏が「民の父母」と言われたりもします。

こうした価値観の影響からか、東アジアでは国家の政治も、企業の経営も、家族的なやり方で行われる傾向があるように思います。(東アジアに限ったことでもないでしょうが)
こうした価値観が日本でも受け継がれてきたことは教育勅語からもわかります。いわゆる「日本型経営」もその派生系かもしれません。


しかしながら、家族と企業と国家とでは、「人の集まり」という点では同じでも、その性質が異なっているので、同じやり方がそのまま有効だとは限らない、とも思います。


つまり、家族というものは、(常にそうとは限らないものの)一般に血縁関係にある者同士の集まりであり、その構成員は幼少からお互いを親しく知っていて、また同じところに住んでいて、普段の日常生活を共にしている集団です。
また、扶養関係はあるものの、労働契約によって成り立つ関係ではなく、何か労働をしてその対価としてお金を受け取る、という関係でもありません。
また、社会状況にもよりますが、家族とは比較的小規模な集団であって、大家族であってもそのメンバーは20人を超えることは少ないでしょう。


これに対して、企業というものは、そのメンバーは基本的に血縁関係にあるわけでもなく、幼少からお互いを親しく知っているわけでもなく、普段の日常生活を共にしているわけでもありません。
また、基本的に企業は労働契約によって成り立っている関係で、何か労働をして、その対価としてお金を受け取る関係というのが基本です。(もちろん、労働契約とは別に仕事仲間と個人的に親しくなることはあり得ますし、それは望ましいことでもあるでしょうが、しかしそれが企業の本質というわけではありません)
また、企業はその規模にもよりますが家族よりもずっと大規模になり得るもので、その従業員は数千人数万人やそれ以上にもなることがあります。


また、国家の場合は、企業に比べるとやや家族に近いところがあって、そのメンバーは何らかの原理原則や歴史的背景を共有しているものだと見なされます。多民族国家なら民族的ルーツも多様ですが、政治的には何かしら統一の原理を持った集団だと見なされます。

とはいえ、そのメンバーのほとんどはお互い個人的に面識があるわけでもなく、幼少から交流があって日常生活を共にしているというわけでもないので、こうした連体はより理念的な、あるいは名義的なものでもあります。

また、一般に国民は国家に納税して公共のサービスを受ける関係ではありますが、労働契約というわけではなく、働けないからといって解雇されるわけではありませんし、定年で国籍がなくなることもありません。
また、これも国家の規模によりますが、その人口は企業よりもはるかに大規模なものになり得ます。国によっては何億人、十何億人もの人口があります。


そんなわけで、家族と企業と国家にはこうした性質の違いがあるわけですから、おのずからそれを「治める」やり方も違ってくるはずです。またこの他の共同体にも、それに適したやり方があるでしょう。

まあ一般に家族間で培った人間関係の結び方が、その後の人間関係の基礎になる、という意味では、家族が基本になるという考え方も正しいでしょうが、しかしその同じやり方がどこでも有効なわけではない、とも思います。



例えば、企業ではしばしば、サービス残業とか残業代不払いとかの「タダ働き」が問題になりますが、これも家族の間でなら普通のことだと思われます。
というのは、家族なら、何か困った時には互いに助け合い、そこに対価を求めない、というのは自然なことで、たぶん美徳でもあるだろうからです。逆に、家族間で働いたことに金銭的対価を求められたら不自然なことだとも思えるでしょう。

しかし企業は労働契約によって成り立っているのですから、本来なら「タダ働き」などはあってはならないことのはずなのです。

また、企業のためなら自分の生活を犠牲にしてまでも働き、上司や先輩とは対立を避け従うべきだと考える価値観も、たぶん家族関係でならあまり不自然ではないでしょう。一般に家族のために我が身を犠牲にする人は立派だと見なされますし、私もそう思います。しかし、企業は家族とは違う関係に基づいた集団です。
もちろん、個人的にある仕事を天職だと考え、それに打ち込むことに人生の意義があると思う人もいるでしょうが、それは一般化できるものではありません。



また国家の場合でも多分こういうことがあって、有力な政治家が家族や友人に私的に利益を誘導してやり、こうしたことを禁じた法律を守らない、ということがありますが、多分これも家族でならそれほど不自然ではないでしょう。なぜなら、家族や友人とは本来助け合うものですし、その関係は法律によって厳密に規定されるようなものでもないからです。
しかし、国家は家族とは異なった関係に基づいた集団です。
国家の成員は皆同じ民族で同じ血縁関係にあるはずだとか、そこに他の異質な集団がいてはいけないと考えるようなこともこれに当たるかもしれません。



そんなわけで、家族と企業と国家はそれぞれ異なった集団ですから、家族関係と、政治と経済とでは、異なったやり方を適用するべきだと思います。

アサリでお台場の水質改善?

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東京五輪パラリンピックの会場となる東京湾の水質を改善しようと、東京都は8日、お台場海浜公園(港区)に砂を投入した。アサリなどの貝がすみつくことで、水を浄化する効果が期待できるという。3月末までに、約1万1千立方メートル分を投入する予定。

…公園は五輪トライアスロンなどの競技会場。昨年のテスト大会では、海を泳いだ選手から「トイレのような臭さ」との声も出ていた。パラトライアスロンではスイムが中止になった。」

 

 

場所を変えればいいのでは…?

 

なぜ今になってこの対応なのか…

アサリが住み着くのを期待って気が長すぎやしませんかね…?


というかたとえ異臭がしなくなっても、生活排水の流れ込んでくるようなところで泳ぎたくはない。私だったら。

人権と「思いやり」

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よく、「日本では人権が“思いやり”とか“みんな仲良く”といった概念と混同されてしまう」という話を聞きます。

私もある程度はそういう傾向があるように思います。


人権と思いやりの違いについて言えば、人権とは権利の一種であり、権利とは法的な概念です。
ですから、「人権」という時には、それは法的に「守られなくてはならないもの」であり、社会の側にはそれを守る義務があり、人がそれを侵害された時には、その人は異議を申し立て、公正な裁判を受ける権利などがある、ということになります。


一方で、「思いやり」というものは、確かに「良いこと」ではありますが、別に義務ではなく、「守っても守らなくてもいいもの」です。
ですから、「思いやり」という場合には、社会にはそれを守る義務もなく、人はそれが失われても異議申し立てはできない、むしろそんな申し立てをすれば「厚かましい」と言われかねないものとなります。
そんなわけで、こういう「思いやり」は、人身の保障としてはとても頼りないものとなります。というのは、それは思いやりを与える者の厚意によって成り立っているので、彼が心変わりしてそれを与えるのをやめてしまえば、いつでも失われ得るものとなるからです。


そんなわけで、人権を思いやりと混同するのは危ういことですが、思うにこうした混同が起こるのは単に社会に法的な観点が薄いからではなく、もっと別の理由があるように思います。



私は基本的に、人権という時には、それをまず「自分自身の」権利のこととして考えます。

そして、それが守られてこそ、他の人の権利も同じように守ろうと思います。

言ってみれば、ある社会の中で自分の身の安全が保障されていてこそ、自分もまた他の人の身の安全を守るべきだと思います。

そして自分としては、こうした権利が認められることが、社会に求める最低限のラインだと思っています。
というのは、もし自分の身の安全さえ保障されない社会ならば、そんな社会はくたばれと思うからです。


しかし、人権という概念に否定的な言論を見ていると、どうもこうした人たちは、人権というものは「自分のもの」というより、「他人に与えるもの」だと思っていて、従って、こうした概念を認めてしまうと、それだけ余計に他人に配慮しなくてはならなくなるので面倒だ、と思っているような印象を受けます。

多分こうした違いが出てくるのは、私が自然法思想を基本にして社会を考えているのに対して、こうした人たちは何か別の観念を基本に社会を考えていて(多分それは上下関係や親子関係を基調にした儒教的な社会の観念でしょうが)、人権やそれに類するような諸権利はそこにつけ加えられた「おまけ」のように考えているからだろうと思います。(違ったらすみません)

確かにこうした考え方でいけば、人権というものも一種の「思いやり」とか「お気持ち」ぐらいの位置づけになるだろうと思います。


確かに、人がある社会の中で、その社会の伝統的な秩序によく適合できていて、社会的地位も高くて、お金持ちで、権力もあって、健康にも恵まれている、というのであれば、人権の概念など存在しなくても、多分あまり問題なく生きていけるでしょう。むしろそんなものがない方が、他人を自由に酷使できるのでその人にとっては望ましいかもしれません。

しかし、これらのうちのいずれか、もしくは全てが欠けている人にとっては、法的な人権の保障が最後の命綱になる、ということだってあり得るわけです。いや、そうでない人にとっても、本来それは最後の保障なのですが。

そんなわけで私も人権を求めていますが、私が人権思想を支持するのは、まずそれが自分自身の生命と財産と自由を守るための「法的な」保障だからです。

そしてその権利があるということは(実際に守られているかどうかはともかくとして、法的には)、違法な奴隷労働を強いられなくてもいいということであり、上司の命令であっても不当な要求には従わなくていいということであり、犯罪に遭ったらその補償を求め公正な裁判を受ける権利があるということであり、何かの宗教を信仰することを強いられなくていいということであり、言論を統制されなくていいということであり、自分の財産を正当な理由なく政府に押収されなくていいということであり、政府を批判しても秘密警察に逮捕されて拷問されたり処刑されたりしなくてもいいということなのです。
私はこれを不当な要求だとは思いません。



まぁ「思いやり」という観念も、それはそれで有効だろうとは思いますけどね。

というのも、皆が思いやりを持つようになれば、社会全体も思いやりある社会になり、自分もその中で良い思いをできるだろうからです。
しかし、皆が思いやりを持たず他人に危害を加えようとするようになれば、社会全体も危険な社会になり、自分もその中で苦しい思いをするでしょう。

情けは人のためならずと申しますし、こうした道徳も一つの拘束力ではあります。

例えば宗教上の戒律としての「慈悲」のようなものであれば、それはやってもやらなくてもいいことではなく、一つの「義務」ですから、宗教的道徳が強い規範となっている社会ならそれも人身の保障になるかもしれません。

しかし現代社会ではやはり「法の支配」が建前なのですから、そういう道徳だけではやはり不安定で、人権も法的に保障されるべきだと思います。