empirestate’s blog

主に政治について。

自由が行き過ぎると自由を滅ぼすという話

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古代ギリシャアテネは民主制の国でしたが、その住人には民主制に批判的な人々がいました。

アテネ人のプラトンは、「民主制が行き過ぎ、自由が行き過ぎると、民衆の扇動者が現れ、人々の欲望を煽り立てて自分の味方につけ、民意を背景にして権力者となる。そして彼が独裁者になってしまうので、行き過ぎた民主制は結局は独裁制になってしまう」と主張しました。そしてこれは彼自身の経験に基づいたものでした。
アリストテレスも「民主制の堕落した成れの果てと、独裁制は同一のもの」だと言っています。

そんなわけで、「自由が行き過ぎると、かえって自由が失われる」ということが古来から言われています。この理論は中世において王制を擁護する論拠の一つとなっていたようですが、またこの実例は実際の歴史にも表れています。
ヒトラームッソリーニも民衆を扇動することで権力を握りましたし、かつての共産主義の東側諸国で、人々が旧体制の支配者から解放されたはずなのに、新たな独裁に陥ってしまったのも同様だと言えるでしょう。

古代ローマで、共和制から帝制への道を開いたカエサルも、民衆の強い支持を受けていたと云います。
またこれは中国の歴史にも見出だせるでしょう。中国には古くから、政治は人民のためにあるという観念がありますし、中国の皇帝は極端な話、実力さえあれば誰でもなれるわけですから、ある意味自由で民主的にも思えますが、そうして出来上がった中国の帝制が、自由で民主的な社会をもたらしたわけではないことは言うまでもありません。

そんなわけで、「自由が行き過ぎるとかえって自由が失われる」という理論には正当性があると思いますが、しかし考えてみるとそれも当然のことです。

というのは、例えば一人の人が意のままに支配する、典型的な「独裁」体制というものを考えてみると、その独裁者自身は、誰にも制約されず意のままに人々を支配できるわけですから、彼自身はある意味で「自由」であるわけです。
しかしながら、他の人々にとっては、独裁者の恣意に従うことを強要されるわけですから、それはもちろん「自由」ではあり得ません。(さらに言えば、このような体制は独裁者自身にもなにがしかの不自由を強いることになるでしょうが)

なお、独裁制は必ずしも一人の人が支配するものではなく、多数者による独裁ということもあり得ます。

そんなわけで、自由主義(リベラリズム)の社会であっても、他人の権利を侵害する自由までは認められず、他人を尊重するべきこと、嘘をついてはいけないこと、公序良俗に反しないことなど、個人の自由には何らかの制限がかかっているのが普通です。

そしてこうした制限を一切取り払って、ただ自らの恣(ほしいまま)に振る舞おうとし、かえって他の全てのものを自らの恣意に従わせようとするならば、即ちそれが「独裁」の始めになるわけです。
客観的な事実よりも個人的な願望を優先する「ポスト真実」も、他人を利用するために嘘をつくことも、同じ考えに基づくものでしょう。

ですから、人権宣言などでも、単に人は「自由」であると言うだけではなく、また「平等」であるとも言っていますが、これは人々の間に平等がなければ、誰かが誰かを支配し虐げることになって、結局は自由そのものの否定になるからだと言うべきでしょう。各人が平等な権利を持っているからこそ、各人の権利が守られるわけです。そんなわけで、自由主義の社会でも、不当な差別は非難されることになります。


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ですから、「不寛容には不寛容であるべき」というカール・ポパーの「寛容のパラドックス」は有名ですが、これも実はパラドックス(矛盾)というべきものではないでしょう。
というのは、もし自由主義の社会で誰かが「私が独裁する自由を認めろ!」と主張し、それが受け入れられてしまったら、それは即ち自由主義そのものの否定になるからです。むしろ、その方がパラドックスだというべきでしょう。どんな社会も、何らかの理念に基づいて建てられているので、その基盤そのものを破壊するようなことは認められないのは自然なことです。


そんなわけで、人は自由なだけでなく、また平等でもあり、他者を尊重し他者の権利を守るべきであると見なされるわけですが、これは近代になって初めて言われだしたことではなく、実は古来からの道徳なのです。

古代の刑罰には、「目には目を、歯には歯を」と云われるような、いわゆる「同害報復」の刑罰がありますが、ここにはすでに「平等」に結び付いた「公正」の観念が表れています。同害報復自体は今では支持されないにしても、この観念は今にも生きていると言えるでしょう。
孔子は「自分がして欲しくないことは人にもしてはならない」と言っていますし、ブッダは「我と我が身に引き比べて、他の者を殺してはならない、害してはならない」と言っていますし、キリストは「自分がしてほしいと思うように、同じように人にもしなさい」と言っています。

そしてこのような倫理が人々の間で基本的な道徳として受け入れられてきたのは、ごく自然で正当なことでもあります。というのは、そうでなければ人々は共に生きていくことさえできないからです。そしてそうなれば、それは社会的な生き物である人の自然にもとることで、人間性の否定にもなりかねません。
ですからこの倫理も、人権と同じように人の自然にもとづき、自然法によるものだと言っていいでしょう。

そんなわけで、古今東西どんな社会でも、人を殺してはならない、姦淫してはならない、嘘をついてはならない、盗んではならないといった道徳が、少なくともその身内同士の間では存在します。このような倫理規範が存在しない社会を、私は寡聞にして知りません。

一方で、このような倫理規範を無視して、一切を自分の恣意に従わせようとする者は、古来から非難の的になってきました。
専制支配の続いた中国でも、民を虐げる君主は暴君として非難され、民をいたわる君主は名君として称賛されてきたのは、人は他者を尊重し他者に配慮すべきであるという倫理が、過酷な専制支配のもとにあっても、なお生きているからだと言えるでしょう。


ですから、あえて言いますが、「独裁制」の社会は、不自由で束縛の多い社会ではありますが、実はその根底にあるのは「行き過ぎた自由」であり、その社会は自分勝手さと不道徳によって支えられているのです。

一方で、「自由」が保証されている社会は、自由ではあっても、実はその根底にあるのは「公正」であり、その社会は仁義道徳によって支えられているのです。
(もっとも、道徳といってもそれは別に特別で非日常的なものではなく、人が共に生きていく上での基本的な道徳なのですが)

もちろんこれは、独裁制の社会に公正な人が存在しないという意味ではありませんし、自由な社会に不正な人が存在しないという意味でもありません。しかし独裁体制にあっては、人はたとえ公正であろうとしても、それを保つことは難しいでしょう。直接間接に、独裁者に協力することを求められるわけですから。


さらに言えば、人はたとえ本質的には平等であるとしても、社会の中では、社会的な関係や個人的な資質の違いによって、多かれ少なかれ不平等な関係が生じてきます。それでもその格差が固定され、本質的な不平等になることがないようにするためには、平等な権利を守るための不断の努力が必要であり、上位者に対しても、常に自らの権利を守ろうとする勇気が必要です。

しかし、もし人がこうした抵抗をやめてしまい、不平等を甘んじて受け入れるようになるならば、いずれただ他人に従えられるだけの存在と化してしまうでしょう。そしてその行き着く先は、独裁者の下の臣民ということになります。


ですから、独裁制の社会は、自分勝手さと不道徳だけでなく、また柔弱と怠惰によって成り立つものであり、
一方で自由な社会は、公正だけでなく、また勇気と努力によって成り立つものでもあります。

もちろんこれもまた、独裁社会にあって勇敢な者が現れ、その体制に抵抗するようになることを否定するものではありません。しかしながら、このような独裁体制は、一度それが成立してしまうと、もはやそれを覆すことが非常に困難になってしまう。と思われます。それはサウジアラビアのジャーナリスト殺害や、中国の民主運動家への弾圧を見れば明らかです。
そして、一度このような独裁体制ができてしまうと、それを覆すためには、そうでない場合よりもずっと多くの勇気と努力と幸運とを必要とすることになるでしょう。

そんなわけで、誰かが言っていましたが、真に民主的で、自由で平等な社会は、実は非民主的な…というより、民主制以前の伝統的な倫理道徳にもとづくものだという考えは至当だと思う次第です。


ところで、私は以前の記事(リベラリズムの理念 http://empirestate.hatenablog.com/entry/2018/08/29/183048 )で、ファシズムの思想は「まず国が先にあり、それに奉仕するものとして人々を想定する」考え方だと言いました。そしてこの考え方では、権力者は人々の同意に基づかず一方的に人々を支配できるので、ファシズムは権力者にとっては都合のいい考え方である、とも。
ですから、独裁者になろうとする者が、ファシズムを好むのは自然なことでもあります。ファシズムはたとえそのものとしては必ずしも独裁制ではないとしても、権力者によって容易く利用されてしまうからです。

ところで、ファシズムの思想では「国」のほうが「人」より先に来るとしたら、その場合の「国」とは実際のところ、何を意味しているのでしょうか?それは人々の共同体というよりは、もっと別のものがその本質にあると思われます。

思うに、この場合の「国」というのは、人々の共同体というよりは、人々に優越し、人々を従えるための力である。要するに「権威」であり、「権力」である、と思われます。

国は人が集まってできるとはいえ、その人々はただ同じ場所に集まっているというだけではなく、「協働」しているわけですから、どんな国でも、人々を統合するための何らかの権威があります。
それは宗教であったり、君主であったり、伝統であったり、人種や民族であったり、「民意」であったりしますが、もしこのような権威を、誰かある人(もしくは人々)が独占して、恣意的に利用することを許すなら、その他の人々は容易くその支配下に入ってしまうでしょう。

ナチスの場合は「人種と民族」という権威を使って人々を支配し、共産主義の東側諸国では「民意」という権威を使って人々を支配し、大日本帝国の場合は「君主と宗教」と、恐らくは「伝統と人種民族」をも使って人々を支配してきたと思います。

独裁体制下では、人は自分より上位の者には服従させられ虐げられ、自分より下位の者は服従させて虐げる、ということになりがちなので、その中では人は、何とかして他人より優位に立とうと腐心することになります。
しかし誰かの部下ではあっても、何らかの理由で上司のお目こぼしをもらっているとか、上司の弱みを握って主導権を握っている場合には、人は上位者の制約を受けることなく上位者の権威を傘に着て、恣意的な権力を振るうことができるので、それを狙う人は、有能で干渉してくる上司よりは、物言わぬ暗愚な上司を好むということになります。
つまり、君主制下にしばしば見られる、暗愚な君主を立てて政治の実権は側近が握り、君主の権威を傘に着た側近が意のままに支配するという、いわゆる君側の奸です。

同じように、「国」という抽象的な観念は、いわば物言わぬ上司のように、権威はあっても、それ自体としては意志を持たないので、それを利用して他人を従えようと思う者がいても不思議ではありません。

ですから、私たちはそのような権威を認めはしても、その権威を誰かが独占して、恣意的に利用するようなことを許してはならないわけです。もし他人に従えられる身でありたくないならば。

声高に、自分は「国」を愛すると言い立てるような人は、実はその「国」を利用して、他人を支配しようとしているのかもしれないのです。

連陸文著

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先日、ニュース配信媒体サイトの「連陸文著」が立ち上げられました。(私が管理しているわけではありません)

http://renlik.net/


すでにいくつか記事が載っていますが、せっかくなので、メディアの意義を考えるものとして、この記事を紹介しておきます。

サウジアラビア政府に殺害されたと見られる、政権を批判していたサウジのジャーナリストの事件についての記事。


http://renlik.net/2018/10/21/%e3%82%b5%e3%82%a6%e3%82%b8%e3%82%a2%e3%83%a9%e3%83%93%e3%82%a2%e3%81%8c%e6%94%bf%e6%a8%a9%e6%89%b9%e5%88%a4%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%8a%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%80%81%e3%82%ab%e3%82%b7/ 

偽装工作に、文書焼き捨ても…証拠隠滅のためか。(引用元には動画もあり)

http://renlik.net/2018/10/23/%e6%ae%ba%e5%ae%b3%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%82%b5%e3%82%a6%e3%82%b8%e3%82%a2%e3%83%a9%e3%83%93%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%8a%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%80%80%e6%ae%ba%e3%81%97/

サウジアラビア政府は、政権に批判的だったジャーナリストのジャマル・カショギ氏の殺害を認めたものの、その死が「口論から殴り合いになった末のものだった」としたり、文書(証拠?)を焼き捨てたりと、事実を小出しにしながら、肝心なところは隠し通そうとしている態度がうかがえます。

しかしこの事件は逆に、政権批判も含めた「言論の自由」の貴重さを教えてくれるものでもあるでしょう。

私達が得ている自由は決して、努力もなしに常に保証されるものではないし、常に保証されてきたものでもないと言えます。

カショギ氏の弔いのためにも、言論の自由を守るため、声を上げ続けていくことが必要です。いま持っているものまでも、奪われないために。

新しい国旗考えてみた

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以前の記事(http://empirestate.hatenablog.com/entry/2018/09/11/212327)でも書きましたが、私は日の丸(日章旗)がデザイン的にあまり好きではありません。旭日旗も微妙です。

何というか、白地に赤い丸だと、包帯の上の血のシミみたいに思えてしまうんですよね。
思想背景的にも、日章旗旭日旗は共和制よりは帝政を思わせるものだと思います。

別に太陽の印が嫌いというわけではないです。フィリピンの国旗は好きですし。

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バングラデシュの国旗もそこそこいいと思います。

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皇室が嫌いだというわけでもないです。菊の御紋は好きですし。

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しかし日の丸はやはりデザイン的に微妙なので、新しい国旗を考えてみました。

まず普通の日の丸ですが、これの色合いを加工してみます。

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うん、悪くないかも。
色を反転させただけですが、だいぶ印象が変わりますね。

さらに加工。

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これでも良いかな。




さらに加工。

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丸を輪にしてみました。
古代の日本は「ワ」の国と云いましたし、これもいいかも。
(ちなみにワ(倭)というのは古代中国から呼ばれた蔑称だという説もありますが、字はともかく、「ワ」という発音は蔑称ではなく、日本自身に由来する言葉だと思います。それは「倭」が「和」と字を変えながらも、同じ発音で「日本」を表すものとして今に至るまで使われていることからも分かります。従来、この「ワ」とは一人称の「我」の意味であり、古代の日本人が中国人に対して自国を「我が国」と言ったことから、中国でもこう呼ばれるようになったとの説があります)



まあ「ワ」というのは語呂合わせですが、もっと真面目に、オリジナルのデザインも考えてみました。

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青地に8本の線を引いたデザイン。
(線と線の間隔は均等に近づけようとしましたが、実際には均等になっていません)

8本のラインは日本の8つの地方(北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州と沖縄)を表しています。
九州と沖縄は分けたほうがいいかも知れませんが、現在の地方区分の踏襲と、数を8に揃えるためにこうしました。


地方区分の他に、8という数は古代の日本では「たくさん」や「全体」を表す数なので、「複数からなる全体」「多様性と統一」を意識してこうしました。
(8がこの意味で使われている例は、「千代に八千代に」、「八千矛(やちほこ)」、「八十万(やそよろず)」、「八十神(やそがみ)」、「八尺(やさか)=長大な」、「八衢(やちまた)=道が多くに分かれているところ」などがあります)


赤線を加えてみたバージョン。ちょっと目に痛いかも。
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ちなみに一応色にも意味があって、青は自由、白は公正、赤は人々を表しています。とはいえ色の意味は多様なので、あまり色にはこだわっていません。


色違いバージョン。
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縦線でないバージョンも作ってみました。
真ん中の星形は八芒星になっています。
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どうでしょうか?

アンニュイ

最近色々あってちょっと疲れています。ていうか憂うつです。

やらなきゃと思うことは色々あるのに、なかなか手をつけられないような、そんな状態。倦怠。どうにかしたい、けどなかなか変わらない。

でも生きていかなければ。

自分自身の幸福のために。

youtu.be

自分のペースでやっていこうと思います。
ペースが乱れていると、できることもできなくなってしまいそうですし。

沖縄が終わったとかいう声に対して

2018年沖縄県知事選挙で玉城デニー氏が当選して、「沖縄終わった」とかいう声が一部でありますが、それに対してせやろがいおじさんが一言。
youtu.be

そう、この対話と協力が大事ですね。
無論これは沖縄に限ったことではなく、日本でも世界でも求められていることだと思います。


ちなみに、この動画を作った経緯については本人がこちらで書かれています。
www.seyarogaiojisan.com

良心的ですねー。芸人かくあるべしと思います。一部の出版業界隈にも、もっとこんな良識があればいいのにと思います。


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世の中、対話だけで全てがうまくいくとは思いませんが、始めから対話をしようともしないのでは、この世はますます生き辛い世の中になるばかりでしょう。

世の中には戦争や紛争もありますが、そうした争いの当事者同士でさえ、対話を試みて、協定を結び講和を結びます。そうでなければ、一度戦いが始まったら永遠にそれが続くということになるでしょう。しかし、いかに世の中には争いが多いとはいえ、永遠に続いている戦争などはありません。困難な道でも、対話を諦めてはならないと思います。

沖縄米軍基地について、琉球新報より。

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琉球新報の「沖縄基地の虚実」シリーズ。というのを最近見つけました。もっと早く見つけていればよかった。

https://ryukyushimpo.jp/tag/%E6%B2%96%E7%B8%84%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E3%81%AE%E8%99%9A%E5%AE%9F/

琉球新報辺野古新基地建設に反対の意見のようなので、偏った部分もあるでしょうが、参考に載せておきます。

シリーズものですが、最初のほうの、基地の効用についての部分だけ載せておきます。普天間辺野古海兵隊の基地なので、海兵隊についての記述も多い。

その1
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244818.html
シーレーン防衛に海兵隊は意味があるのか?という疑問がつけられている。とはいえこの辺は今後状況が変わるかも知れませんしね。

その2
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244831.html
自衛隊まず対応 米軍は「支援」「補完」”
尖閣諸島などの防衛に米軍基地が必要という意見に、「離島防衛は陸上自衛隊が主体で、米軍の役割はその支援に限られる」とのこと。
まあ当然ですよね。自国の領土なんですから。

その3
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244846.html
確かに朝鮮半島有事なら、九州のほうが近いですね。

その4
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244930.html
台湾有事の時も海兵隊は出動していなかった?今後状況が変わるかもしれませんが。

その5
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244942.html
軍事的には嘉手納基地が重要なんですね。辺野古新基地に反対なのと、全ての基地に反対なのをごっちゃにしてる場合がある印象は確かにあります。

沖縄県庁の米軍基地Q&A(http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/tyosa/qanda.html)と、琉球新報のこの記事(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-519512.html)によると、嘉手納の基地は元々日本軍の基地だったものを流用したものですから、(拡張もしてますが)その点でも、嘉手納以南の基地が民有地に建てられたものが多いことに比べると良いでしょう。


海兵隊の効用については疑問も持たれてますが、以前紹介した記事の元防衛相の人の発言からして、私は必要ないとまでは思いません。とはいえその役割は限定的なものなのかもしれませんが。

私も、米軍基地を全てなくすべきだとまでは思いません。しかし安全保障の効果を保ちつつ、基地の負担を減らせる道があれば、それを支持したいです。



ちなみに県内の移設案でも、海の埋め立てではない陸上の移設案もあるみたいです。
https://www.businessinsider.jp/post-19525

↑の文中で紹介されている沖縄タイムスの記事はこちら。
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67348

新潮社前の抗議

先日(9月25日)、新潮社前の抗議に行ってきました。

この抗議の経緯については、新潮社の出していた新潮45で、自民党杉田水脈氏がLGBTには「生産性がない」などと述べたLGBT差別の記事が載せられ、批判が殺到して炎上。
そのあとさらに小川榮太郎氏らによる杉田氏の記事への擁護記事が載せられ、その内容がまた、性的指向性的嗜好を一緒にしたり、LGBTを痴漢と同列に論じたりした差別的なものだったため、また炎上しました。

このため、新潮社前での抗議が呼びかけられていましたが、抗議の当日(9月25日)になって、新潮社は批判を受けて新潮45の休刊を発表しました。
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO35725940V20C18A9000000?s=3

で、私も新潮45が休刊したことだから抗議に行くのはやめようかとも思いましたが、ここで人々が集まらないと、抗議を呼び掛け応じていた人々の本気さを疑われるかも知れないと思ったりしたので、行ってきました。

新聞によると集まったのは100人ほどだったようですが、当日は雨で、ちょうどその日に休刊が発表されたところだったので、そうでなければもっと人が集まっただろうと思います。
もっとも、新潮社前は場所が狭いので、100人ほどでも十分多いように感じられました。
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新潮社前は狭い通りで、近くには病院もあるということで、サイレントでの抗議(声は上げない)にするということは事前に告知されていたので、人々は黙って立ち、ポスターやプラカードを掲げていました。f:id:empirestate:20180927222656j:plain
取材に来ていたメディアもけっこういたようで、人々が取材されていました。

同じ出版業界からも批判の声が。
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毎日新聞の記事
https://mainichi.jp/articles/20180926/k00/00m/040/117000c

新潮45がああいう記事を載せるようになったのは、出版業界が不況なためだろうと思います。それで一部では売れるとわかっている路線に行ったのでしょう。
しかしその路線は許されないことだということを示せたという点で、一連の抗議行動には意味があったと思います。

とはいえやはり出版業界の不況がこうした路線の理由になっているという面も大きいですから、本好きな皆さんにはぜひ健全な本を買って、健全な出版業界を応援してもらいたいと思います。