empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。あと読書感想文とか。

東方曲ベスト3とか

今日初めて知りましたが、3月19日は「ミュージックの日」らしいです。まあ特に由来があるわけでもなく、319=ミュージックという語呂合わせらしいですが。

でもせっかくだから、私の好きな東方の曲でも紹介してみようと思います。(知ってる中で)


ちなみに東方とは「東方project」という同人ゲームシリーズのことです。
原作はシューティング(一部アクション)ゲームですが、シューティングらしからぬ独特な和風の世界観とかキャラ作りとか、あと音楽とか音楽とか音楽とかが評価されています。
登場キャラのほとんど全てが女性なのでいわゆる萌え系の扱いをされることもありますが私個人としてはそんなつもりはない。

なお紹介する曲は元々ゲーム中のBGMなので、曲はだいたい2度ほどループしてます。


道中曲ベスト3はこちら。


1:死霊の夜桜
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夜の雰囲気が感じられて良い…
静かな、でも夜のテンションで少し楽しくなってるような、そんな雰囲気。


2:廃獄ララバイ
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ララバイとは子守唄のこと。この場合は死者の魂を眠らせるみたいな意味もあるのかもしれませんね。2ループ目以降は風の音はなくてもいいのでは?


3:幻想のホワイトトラベラー
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これも夜道を思わせる。こういうの散歩しながら聴きたいですね。


テーマ曲ベスト3はこちら。

1:砕月
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読みは「さいげつ」。何となくお祭りを思わせる曲調。楽しげで、しかもそこはかとなく切なさも感じさせるところがたまりませんわー


2:永遠の春夢
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春夢は「しゅんむ」と読みます。春夢とは言葉どおり春の夢、また物事の儚いことの例えだとか。


3:ラストオカルティズム
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妙に悲しげな雰囲気の曲。悲しげなというより悲壮感かな?ラスボス感がある。


他にも「信仰は儚き人間のために」とか「妖怪の山」とかも好きですがベスト3なので割愛。
音楽が作れるっていいなあ。

あと、私は東方の原作はやったことがありません。スマホゲーならやりましたが。

戦略メモ~新文化運動~

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筆者はリベラルネット戦略に賛同しています。この活動は、ネット上でリベラル側が自ら情報を発信し、またそれを助け、ネット上にリベラルなメディアと言論空間を築こうというものです。

この戦略への取り組みは様々あるでしょうが、私としては次のように考えています。

この戦略の目標は、短期的な目標としては自民党案による改憲を止めることであり(改憲自体には反対でなくても、今の自民党による改憲には反対という人も多いでしょう。私もそうです)、長期的な目標としては、日本にリベラルな文化を根付かせることだと思います。

とはいえ、この前者は後者から独立したものではなく、後者によって前者を達成するという面も大きいと思います。
つまり、リベラルな文化を、あるいは「気風」を作っていくことで、それが前時代的な改憲を阻止することにつながると思います。なので、私としてはむしろ文化のほうを重視しています。

これは単に戦略的な意味で言っているわけではなく、私自身の主たる関心事が文化にあるからでもあります。

よく言われますが、日本のいわゆる「同調圧力」だとか、「出る杭を打つ」文化だとか、男尊女卑だとか、固定したジェンダーロールだとか、理不尽な上下関係だとか、差別だとか、そういった文化には多くの人が不満を感じているようですし、私もまた感じています。なので、私はこうした風潮を変えていきたいと思っています。
いやむしろ、現代の政治状況自体が、こうした文化的な土壌から派生したものだとさえ言えるでしょう。

ですからこれは、自分に合った世の中を作っていくことで、自分が幸福に生きていけるようにするということで、政治に限らず、人が社会に生きていく上で普遍的に行われていることでもあります。


で、それではどうやってリベラルな文化を作っていくのかと言えば、それは私達の心がリベラルであることによってそうなる、と言えます。
というのは、文化とは人の言動(言葉や行い)によって形作られるものであり、人の言動は人の心によって形作られるからです。
ですから、私達の心にリベラリズムがあれば、私達の形作る文化はおのずからリベラルなものになっていくでしょう。

とはいえ、たとえ精神的にはリベラルであっても、それが言動として外に現れなければ社会に影響を与えることはできないでしょう。ですから、「発信」するということが肝要になってくるわけです。そして、現代ではインターネットがこうした文化の発信において大きな位置を占めているので、それでネット戦略ということが言われるようになったわけです。

文化には映画や音楽のような創作物もありますが、しかしそれに限られたものではなく、例えば公共の場で他の人に席をゆずるとか、女性を優先するいわゆる「レディーファースト」の習慣だとかも一つの文化です。
よく日本人は礼儀正しいとか、非常時でも列を作って並ぶとか言われますが、こうしたこともまた一つの文化です。

皆さんは、海外の映画やドラマなどを見ていて、登場人物の何気ない仕草や言葉に「文化の違い」を感じることはないでしょうか?
思うに、文化とはそうしたところに現れてくるものであり、またそこから影響してくるものだとも思います。

創作物にしても、たとえ一から作品を作らなくても、二次創作でも、作者の違いによって作風はおのずから変わってきます。

ですから、必ずしも政治的でなくても、私達の発信する文化は世の中に影響を与え、そこから一部派生して政治にも影響を与えるということにもなるでしょう。そんなわけですから、発信する、もっと言えば「自己主張」するということが大事ですね。

言ってみれば、このネット戦略は一種の新文化運動でもあります。
根付いた文化を変えるということは容易ではありませんが、かつて清末民国初の中国で新文化運動が行われた時には、纏足(てんそく)が行われなくなったり、弁髪が廃止されたり服装が変わったりと一定の効果はありました。また同じ中国文化圏でも、香港や台湾では海外の影響で大陸部とは違った独自の気風があったりします。
日本も明治維新で文化は大きく変わりましたし、トルコも共和国になって変わりました。
こうした前例もあることですし、私達もまた新たな時代を作っていけるでしょう。もちろん、良いところまで変える必要はないですが。

またそもそもどの国や地域でも、世代が入れ替われば、人々が入れ替わることでおのずと世の中は変わっていくことにもなります。であれば、その時代の流れに流されていくか、それとも自ら流れを作り出していくか、という違いにもなります。

少女終末旅行

また読書感想文(漫画の)を書いていこうと思います。
今までは少女漫画ばかりだったので、たまには青年誌の作品でも紹介してみましょう。青年誌でも主人公が少女二人組だったりするのはアレですが、仕方ないね。

ところで、世の中には「廃墟マニア」と呼ばれる人々がいて、廃墟めぐりや廃墟の画像集めを楽しんでいるそうです。
たぶんそんな人に好かれそうな作品だなと思ったのがこちら。

少女終末旅行(全6巻)

少女終末旅行 コミック 全6巻

少女終末旅行 コミック 全6巻

舞台は未来の地球。人類がほとんど死に絶えてしまった世界で、広大な廃墟の中をケッテンクラート(軍用車の一種)に乗って旅する二人の少女の話。

人類のみならず他の生き物もほとんど存在しない世界で、かつては人々が住んでいた、あるいは人々に使われていたであろう遺構の中を延々と旅する世界観は、寂寥感と共に一種の自由さや感傷も感じさせて、何か「もののあわれ」を感じますね。

魚さんの話とか、写真の話とか、消えるプログラムの話とか…

命って、終わりがあるってことかも知れない…そうかもね。

ラスト辺りの階段を上っていくシーンは、何だか泣きそうになりました…


調べてみたら、作者はけっこう精神的に病んでる(病んでた)人らしいですが、画面からも気だるい感じが伝わってきますし、何となくわかる気はしますね。
作中の「絶望と仲良くなる」って台詞が何か印象的でした。

ちなみにアニメ化もされてますが、私は見たことはありません。
偏見だけど、アニメ化されたら何かポップになってしまって、原作の雰囲気が損なわれそうじゃない?そうでもないのかな…



あと他でもちょくちょく言われてますが、廃墟の中を孤独に旅する世界観は「BLAME!」にも似てますね。まあBLAME!に比べれば人が機械化されたりはしていない分、まだ人間味がある気もしますが…

BLAME!  (ブラム!) コミック 全10巻 完結セット (アフタヌーンKC)

BLAME! (ブラム!) コミック 全10巻 完結セット (アフタヌーンKC)

人生の中の政治の位置付け

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最近自覚するようになりましたが、私は「政治思想」には関心がありますが、実際に行われている政治経済にはそれほど強い関心もないし、詳しくもないです。むしろ地の性格はいわゆるノンポリ(政治に無関心な層)だとさえ思います。
これはもう、元々の生まれつきの性格がこうだからだと思います。

まぁ全く政治に無関心であってはいけないでしょうが、ノンポリにもそれなりの利点はあると思います。場合によっては、政治に深入りしないほうが良い時もあるでしょうしね。


政治はその影響力の大きさからしても、人生の中でそれなりに重要な要素ではありますが、しかし(こういう言い方は不適切かもしれませんが)、私は政教分離ということを大事にしています。

私にとって政治はあくまでも政治であって、宗教ではありません。つまり、そこに人生の究極の価値があるとか、究極の真理があるとか、心の拠り所があるとかいうものではありません。
私にとって政治はあくまでも世俗的なことであって、言ってみれば日々の仕事と同じようなものです。仕事はそれ自体に価値があるというわけではないですが、生活の必要のためには働かなくてはならないのでやっている、そういうものです。もちろん、世の中には仕事にもっと深い価値を見い出せる人もいますし、それは否定しませんが。(仕事と政治には他にも性格の違いがありますが、それは措く)

そんなわけですから、私にとって政治はそれなりに重要ではありますが、しかし何よりも重要というわけではなく、二番手三番手くらいに来るものです。
政治に関心があるのはいいことでしょうが、あまり宗教的なレベルまで入れ込んでしまうとそれはそれで別の問題を引き起こすと思うので、やはりそこは線引きしたほうが良いと思いますね。

いやむしろ、自分にとって政治とは、本当は関わりたくないけど、降りかかってくるので払わなければならない火の粉のような存在だと言ってもいいくらいです。
立憲民主党の枝野氏も言ってましたが、「政治に無関心であることはできても、無関係であることはできない」というわけで、良くも悪くも政治は私達の生活に関わってくるものですからね。

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以前テレビで、選挙に行かずにパンケーキを食べに行ってた人が、「(選挙より)パンケーキのほうが大事」と言ってたのが物議をかもしてましたが、思うにそれも発想自体はそう間違ってないでしょう。私だって選挙に行かなくてすむならパンケーキ食べていたいですし。

ただ、そうやって安心してパンケーキを食べられる日常を守るためには、政治に関わらざるを得ないということです。

例えばシリアやイエメンのように内戦が起こっている国では、人々は安心してパンケーキも食べられないでしょうし、北朝鮮や中国(特にその一部の地域)のように自由のない環境でも、やはりそうでしょう。
つまり、政治情勢次第では、安心してパンケーキを食べられるような普通の日常も簡単に壊されてしまうわけです。そしてその日常は二度と戻らないかもしれません。

だから私も、面倒でも政治に関わっているわけです。

my best? ボカロ曲3

せっかく動画が貼れるようになったので、私の好きなボカロ曲でも紹介していきましょうか。
甲乙つけがたい曲も多いので、あえてベストとは言い切りません。

ちなみにボカロとはボーカロイドの略で、歌詞を入力すると歌ってくれるソフトウェアです。これを使ってPCで作った曲(DTM)を、昔はニコニコなどでよく聞いてました。今はあまりニコニコを見なくなったので、昔の曲が多いです。仕方ないね。

1:magnet(リンレン版)
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有名どころですね。原曲( https://youtu.be/K_is6LWTYv4 )だと百合をイメージした曲ですが、百合でもBLでもその他でも通用する曲だと思うよ。
いわゆる「禁断の愛」のイメージですかね…
原曲はミクルカですが、リンレン版のほうが声に力があって好きです。別に近親が好きだとかそういう意図はない。あとこの動画には英語と中国語とローマ字の字幕もついててるので、海外でもそこそこ反響があったっぽいですね。


2:夕日坂
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「振り返れば その手がすぐそこに
あるような気が 今もしてる」

いやー泣けるなあ…ホント泣けるわ…

「ありふれてる幸せに恋した」そんな時があなたにもありますか…?


3:天の笹舟
youtu.be
和風曲。たぶんけっこうマイナーな曲かな?
どうも私は悲恋を連想させる曲が好きなようです。


他にも“echo”とか“炉心融解”とかも好きですが、ベスト?3なのでその辺は割愛。

こういうボカロ曲の良さは、金やコネがなくても、自分が作った曲を歌ってくれる人に巡り会えなくても、そういう「素人」が自分で曲を作って共有できることにあったと思います。これはインターネットの良いところだと思います。この間新聞にも載ってましたしね…

自然法思想

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最近気づいた、というか意識し始めたことですが、どうやら私の政治思想は基本的に自然法思想にもとづいているようです。

私が人権にこだわっているのも、歴史的に言えば人権(自然権)思想は自然法思想から発展してきたものだからなんでしょうね。

参考

自然法
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95-73628
自然権
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%A8%A9-73573


自然法思想は「自然」の道理にもとづいて(あるいは自然の背後にある神の意志や、自然の本性としての人の理性にもとづいて)、人の行動を規定する法規範を導き出すものです。

例えば、「人は互いに協力し合う性質を持っている」→「人は互いに協力し合うべきである」→「だから、他人を傷つけたり苦しめたりしてはならない」といったものです。


日本の政治風土は儒教がベースになっているように思いますが、私にはそれが合わないと思うのは、私の政治思想が自然法思想にもとづいているからなんでしょうね。

私が儒教よりも自然法思想を推すのは、それが儒教よりも普遍的な道理だと思うからです。
私の見るところでは、儒教は「家族」と「君主と家臣」の関係が、すでに存在しているという前提から出発しています。ですから、この君臣父子の関係自体の正当性はあまり問われていない、むしろそこから外れる者は人非人だといった考えに至る傾向があると思います。後世の儒教は必ずしもそうではないかもしれませんが。
一方で自然法の思想は、こうした関係以前の、人間の「自然」の本性にもとづいているので、より普遍的な基盤のもとに立っていると思います。

で、この自然法思想はストア派などの古代ギリシャの哲学から発展してきたものですが、それはつまり「理性」にもとづいているということです。ですから、古代ギリシャ多神教とは異なった信仰を持ったキリスト教会からも受け入れられてきましたし、今日の政教分離原則の下でも(そこから発展した人権という形で)生きています。「信仰」ではないからこそ、異なった信条を持った人々にも受け入れられるわけです。
そういうわけですから、自民党の某議員が「天賦人権(自然権)思想は西欧のキリスト教の思想だから日本には合わない」とか言っていたのは的外れな意見であります。

さらに言えば、明治天皇も五ヶ条の御誓文の中で「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし」(これまでの悪い習慣を捨てて普遍的な道理にもとづくべし)と述べています。この点は私も同意できるところです。
明治以降の日本が西欧の思想や制度を取り入れてきたのもこの精神によるものでしょう。
参考↓
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html
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(明治神宮ホームページより)

私が自然法思想を推すのは、この明治以来の流れの一環だとも言えます。そういうわけですから、私も明治天皇のこの遺志を継いで、どんどん自然法の思想にもとづいていこうと思う所存です。

「自己責任」の範囲はどれ程か?

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世の中ではよく「自己責任」の思想が取り沙汰されます。
この自己責任思想こそ格差や無慈悲さなどの諸悪の根源のように言われることもありますが、一方では、じゃあこの世には自己責任など存在しないのかと言えば、またそうでもないでしょう。

それで、「自己責任」の範囲とはどれ程なのかについて、私なりに考えてみました。




結論から言えば、ある行為についての「自己責任」とは、狭い意味では、その行為が当人の能力の範囲内にある場合に当てはまることだと思います。

例えば、ある人が働こうと思えばいつでも働くことができて、働いた場合と働かなかった場合の結果を十分に予測できたのにも関わらず、あえて働かなかった、そしてそのために当人が貧困に陥ったという場合、それは自己責任だと言われても仕方ないでしょう。

一方で、病気やケガや障害などで、働こうと思っても働けない、または現状への認識が欠けていて働く必要性を認識できていなかった場合には、貧困に陥っても、それは自己責任だとは言えないでしょう。

(もっとも、実際の労働については、もっと複雑で様々な要素が絡んできますから一概には言えませんが、それについて一律に「自己責任」だと断じることから、劣悪な労働環境が放置されていたり、格差が拡大するといった問題が起こっているものだと思います)

また別の例で言えば、例えば犯罪の場合、ある人に盗みを行う能力があって、また盗まない能力もある、つまり「盗むことも盗まないこともできる」という場合、そして自らの行為の違法性をわきまえ自らの行為の結果を予測できる場合に、それでもあえて盗んだ、という場合、この人が罪に問われて罰を受けても、それは正当なことだと見なされます。

一方で、精神の錯乱のために自分が何をやっているか分かっていないとか、誰か、または何かに強制されて無理やり盗みを働かされたという場合には、この人は自分の行為について責任を問われない場合があります。(あるいは、情状酌量で罰を軽減されるなど)

ですから刑事裁判では、ある人の行為について、その人に「責任能力」があったか否かが問われます。
これは、人が責任を問われるのは、その人の能力の内にあることについてだからです。

ですから、人は自分の知らないところで起こった他人の行為については責任を問われませんし、予期しない事故や天変地異についても責任を問われません。それは、その現象がその人の能力を超えることだからです。


そして、「自己責任」とは、狭い意味では、こうした自己の能力の範囲内にある行為について当てはまることだと私は思います。

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またより広い意味では、自己の能力の範囲外のことでも、当人以外の誰もその責任を負えない場合には、それが自己責任とされることもあると思います。

例えば、スポーツの試合では、自分がベストを尽くしたとしても、力及ばず相手に負けることがあり得ます。
その意味では、試合の結果は自分の能力の範囲外のことではありますが、しかしその結果は試合に出た当人以外の誰も負えないので、この場合には「自己責任」ということになるでしょう。(もっとも、この場合は「そのスポーツをして、試合に出る」という決定を下した時にその責任を負っていると言えるかもしれませんが)

またこれと同じ例では、たまたま出かけた地域で災害にあった場合とか、予期せぬ犯罪に捲き込まれた場合とかも、他の人がその責任を負えるわけではないので、広い意味では自己責任と言えるかもしれません。


で、以上のようなことが「自己責任」の範囲だと思いますが、やはり本来の意味では、自己の能力の範囲内にあることこそが自己責任だと思います。


ですから、世の中の一切のことについて「それは自己責任だ」と見なす考え方は、「自分が頑張りさえすれば万事どうにかなるはずだ」という、自己の能力への過大評価に基づいている考え方だと言えます。
その意味で、これは自己中心的な考え方が行き過ぎたために起こった現象で、前に書いた「民主制の社会で自由が行き過ぎると、かえって独裁に陥ってしまう」という現象に通じることかもしれません。


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こうした自己責任論は、大企業の経営者などのいわゆる「成功者」によって唱えられていることが多いように思いますが、こうした人が自己責任論を唱えるのは、自分が成功したのは自分が何らかの点で恵まれていたからだということについて無自覚になっているか、あるいはそれを自覚しながら、社会に対して責任を負わずに済むためにそう言っているものと思われます。

というのは、万事を自己責任だとみなせば、困窮している他人についても、それは自己責任なのだから自分でどうにかしろと突き放して、その人の困窮について責任を負わなくて済むからです。
これは、社会的に地位のある恵まれた人が、恵まれない人々を保護して社会貢献するべきだという、いわゆる「高貴な義務」(ノーブレス・オブリージュ)を逃れるための手段となり得ます。

さらには、単に経営者などの富裕層に限らず、もし政府が率先して自己責任論を唱えるとしたら、それは政府が「国民の面倒を見る」「公共の福祉のために働く」という役割を放棄することにもつながりかねません。

そういうわけですから、自己責任論は自分で責任を負いきれる事柄については当てはまりますが、あまり拡大解釈して世の中に当てはめると、それは自分で自分の首を絞めることになると思う次第です。