empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

少女終末旅行

また読書感想文(漫画の)を書いていこうと思います。
今までは少女漫画ばかりだったので、たまには青年誌の作品でも紹介してみましょう。青年誌でも主人公が少女二人組だったりするのはアレですが、仕方ないね。

ところで、世の中には「廃墟マニア」と呼ばれる人々がいて、廃墟めぐりや廃墟の画像集めを楽しんでいるそうです。
たぶんそんな人に好かれそうな作品だなと思ったのがこちら。

少女終末旅行(全6巻)

少女終末旅行 コミック 全6巻

少女終末旅行 コミック 全6巻

舞台は未来の地球。人類がほとんど死に絶えてしまった世界で、広大な廃墟の中をケッテンクラート(軍用車の一種)に乗って旅する二人の少女の話。

人類のみならず他の生き物もほとんど存在しない世界で、かつては人々が住んでいた、あるいは人々に使われていたであろう遺構の中を延々と旅する世界観は、寂寥感と共に一種の自由さや感傷も感じさせて、何か「もののあわれ」を感じますね。

魚さんの話とか、写真の話とか、消えるプログラムの話とか…

命って、終わりがあるってことかも知れない…そうかもね。

ラスト辺りの階段を上っていくシーンは、何だか泣きそうになりました…


調べてみたら、作者はけっこう精神的に病んでる(病んでた)人らしいですが、画面からも気だるい感じが伝わってきますし、何となくわかる気はしますね。
作中の「絶望と仲良くなる」って台詞が何か印象的でした。

ちなみにアニメ化もされてますが、私は見たことはありません。
偏見だけど、アニメ化されたら何かポップになってしまって、原作の雰囲気が損なわれそうじゃない?そうでもないのかな…



あと他でもちょくちょく言われてますが、廃墟の中を孤独に旅する世界観は「BLAME!」にも似てますね。まあBLAME!に比べれば人が機械化されたりはしていない分、まだ人間味がある気もしますが…

BLAME!  (ブラム!) コミック 全10巻 完結セット (アフタヌーンKC)

BLAME! (ブラム!) コミック 全10巻 完結セット (アフタヌーンKC)

人生の中の政治の位置付け


最近自覚するようになりましたが、私は「政治思想」には関心がありますが、実際に行われている政治経済にはそれほど強い関心もないし、詳しくもないです。むしろ地の性格はいわゆるノンポリ(政治に無関心な層)だとさえ思います。
これはもう、元々の生まれつきの性格がこうだからだと思います。

まぁ全く政治に無関心であってはいけないでしょうが、ノンポリにもそれなりの利点はあると思います。場合によっては、政治に深入りしないほうが良い時もあるでしょうしね。


政治はその影響力の大きさからしても、人生の中でそれなりに重要な要素ではありますが、しかし(こういう言い方は不適切かもしれませんが)、私は政教分離ということを大事にしています。

私にとって政治はあくまでも政治であって、宗教ではありません。つまり、そこに人生の究極の価値があるとか、究極の真理があるとか、心の拠り所があるとかいうものではありません。
私にとって政治はあくまでも世俗的なことであって、言ってみれば日々の仕事と同じようなものです。仕事はそれ自体に価値があるというわけではないですが、生活の必要のためには働かなくてはならないのでやっている、そういうものです。もちろん、世の中には仕事にもっと深い価値を見い出せる人もいますし、それは否定しませんが。(仕事と政治には他にも性格の違いがありますが、それは措く)

そんなわけですから、私にとって政治はそれなりに重要ではありますが、しかし何よりも重要というわけではなく、二番手三番手くらいに来るものです。
政治に関心があるのはいいことでしょうが、あまり宗教的なレベルまで入れ込んでしまうとそれはそれで別の問題を引き起こすと思うので、やはりそこは線引きしたほうが良いと思いますね。

いやむしろ、自分にとって政治とは、本当は関わりたくないけど、降りかかってくるので払わなければならない火の粉のような存在だと言ってもいいくらいです。
立憲民主党の枝野氏も言ってましたが、「政治に無関心であることはできても、無関係であることはできない」というわけで、良くも悪くも政治は私達の生活に関わってくるものですからね。


以前テレビで、選挙に行かずにパンケーキを食べに行ってた人が、「(選挙より)パンケーキのほうが大事」と言ってたのが物議をかもしてましたが、思うにそれも発想自体はそう間違ってないでしょう。私だって選挙に行かなくてすむならパンケーキ食べていたいですし。

ただ、そうやって安心してパンケーキを食べられる日常を守るためには、政治に関わらざるを得ないということです。

例えばシリアやイエメンのように内戦が起こっている国では、人々は安心してパンケーキも食べられないでしょうし、北朝鮮や中国(特にその一部の地域)のように自由のない環境でも、やはりそうでしょう。
つまり、政治情勢次第では、安心してパンケーキを食べられるような普通の日常も簡単に壊されてしまうわけです。そしてその日常は二度と戻らないかもしれません。

だから私も、面倒でも政治に関わっているわけです。

自然法思想

最近気づいた、というか意識し始めたことですが、どうやら私の政治思想は基本的に自然法思想にもとづいているようです。

私が人権にこだわっているのも、歴史的に言えば人権(自然権)思想は自然法思想から発展してきたものだからなんでしょうね。

参考

自然法
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95-73628
自然権
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%A8%A9-73573


自然法思想は「自然」の道理にもとづいて(あるいは自然の背後にある神の意志や、自然の本性としての人の理性にもとづいて)、人の行動を規定する法規範を導き出すものです。

例えば、「人は互いに協力し合う性質を持っている」→「人は互いに協力し合うべきである」→「だから、他人を傷つけたり苦しめたりしてはならない」といったものです。


日本の政治風土は儒教がベースになっているように思いますが、私にはそれが合わないと思うのは、私の政治思想が自然法思想にもとづいているからなんでしょうね。

私が儒教よりも自然法思想を推すのは、それが儒教よりも普遍的な道理だと思うからです。
私の見るところでは、儒教は「家族」と「君主と家臣」の関係が、すでに存在しているという前提から出発しています。ですから、この君臣父子の関係自体の正当性はあまり問われていない、むしろそこから外れる者は人非人だといった考えに至る傾向があると思います。後世の儒教は必ずしもそうではないかもしれませんが。
一方で自然法の思想は、こうした関係以前の、人間の「自然」の本性にもとづいているので、より普遍的な基盤のもとに立っていると思います。

で、この自然法思想はストア派などの古代ギリシャの哲学から発展してきたものですが、それはつまり「理性」にもとづいているということです。ですから、古代ギリシャ多神教とは異なった信仰を持ったキリスト教会からも受け入れられてきましたし、今日の政教分離原則の下でも(そこから発展した人権という形で)生きています。「信仰」ではないからこそ、異なった信条を持った人々にも受け入れられるわけです。
そういうわけですから、自民党の某議員が「天賦人権(自然権)思想は西欧のキリスト教の思想だから日本には合わない」とか言っていたのは的外れな意見であります。

さらに言えば、明治天皇も五ヶ条の御誓文の中で「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし」(これまでの悪い習慣を捨てて普遍的な道理にもとづくべし)と述べています。この点は私も同意できるところです。
明治以降の日本が西欧の思想や制度を取り入れてきたのもこの精神によるものでしょう。
参考↓
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html
f:id:empirestate:20190303231656g:plain
(明治神宮ホームページより)

私が自然法思想を推すのは、この明治以来の流れの一環だとも言えます。そういうわけですから、私も明治天皇のこの遺志を継いで、どんどん自然法の思想にもとづいていこうと思う所存です。