empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

RADWIMPSのhinomaru炎上で思ったこと

RADWIMPSの“hinomaru”という愛国ソングが、その歌詞が戦前の大日本帝国(以下、日帝)や軍歌を思わせるというので多くの批判を集めた事件がありました。
RADWIMPSの方ではこれを受けて「日帝賛美や軍国主義の意図はなかったけれど、そう受け止めて感情を害した人がいるなら謝ります」という趣旨の謝罪をすることになりました。が、後のライブでこの曲を歌った際には、「歌詞の内容」が批判されているのにもかかわらず、「自分の国が好きで何が悪い!」とちぐはぐなことを叫んだらしく、(素で言っているのかわざと炎上するようなことを言っているのか分かりませんが)結局人々の意思はすれ違ったままで終わったような気がしました。

私がこの事件で問題だと思ったのは(Twitterで山崎某氏も同じようなことを言ってましたが)、RADWIMPS自体の問題というより、日本人が愛国的なものを作ろうとするとどうしても「日帝っぽく」なってしまう、あるいは作り手にそんなつもりがなくとも、受け手がそのように受け止めてしまう、ということでした。(RADWIMPSが言うようにhinomaruの歌詞はそれ自体を見れば必ずしも日帝賛美とは言えないように思いますし)

そして思ったのは、やはり日本の戦後処理はあまりうまくいかなかったんだな、ということでした。それは日帝についての「反省が足りない」というような情緒的な問題ではなく、戦後の日本が、日帝に替わるような新しい「価値」を作ってこれなかった、あるいは作ったにしてもあまり人々の間に根付かなかった、ということです。日帝が悪いということは分かっていても、それに替わるものがなければ結局は日帝に帰っていかざるを得ないわけで、だから「愛国」を表現しようとするとどうしても日帝っぽくなってしまうのでしょう。ですから、日本の戦後が終わるためには、過去の日帝とは決別した新しい「日本」を「これから」作っていかなくてはならないのだろうと思います。戦後その作業を怠ってきたわけですから。

私がそれに加えてもう一つ思ったのは、「文化」にお金を使うということの難しさでした。
私は、RADWIMPSがこういう物議を醸すような曲を作ったのは、たとえ批判を集めることは分かっていても、確実に一部の層には売れる、と見こんでのことだったのではないかという気がします。日本には「愛国」に過剰に入れ込む層が一定数いるというのは周知の事実ですし、書店で外国への敵意や自国の優越感を煽るような本が売れていることからしても、愛国を標榜すれば一定の需要は見込めると判断してもおかしくありません。

現在の日本では音楽業界も出版業界も不況が長く続いているそうですし、道義的に問題があり、多くの批判があると分かっていても、とにかく「売れる」ものを作らなくては、と供給側が思ったとしても不思議ではないでしょう。結局、需要と供給が見合わなくては商売にならないわけですし。

芸術作品といえども、対価を受け取って「売り出して」いる以上は、本当に純粋に芸術的な意図のみでできるわけではなく、やはり「売れる」ものでなくてはならない。つまりは人々がそれにお金を出してくれるものでなくてはならないということでしょう。

もちろん、そういう道義的に問題があるようなものでなくとも、もっと健全な芸術作品はあります。
しかし、改めてこういう「文化」にお金を使うということについて考えてみると、例えば休日に美術館に出かけたり、音楽を聴きに行ったり、映画を見に行ったりということは、お金や時間に余裕があり、精神的にも余裕があってこそ楽しめることであるわけです。
人々の大多数が、毎日、低賃金で長時間労働、少ない休日には疲れ果てて家で寝ているというような生活をしていては、このような「文化」にお金を使うことなどできないでしょうし、そうすればこのような文化を提供する側も、客が減って収入が減り、経営が難しくなって衰退していく、そして結局は社会全体で、文化も経済も衰退していくということになるでしょう。
それでも供給側が生き残ろうとすれば、道義的に問題があってもとにかく「売れる」もの、こう言うと語弊があるかも知れませんが、低俗で原始的な本能に訴えるようなものばかり売り出すようになり、こうして文化が荒廃していくということにもなるのでしょう。すでに出版業界の一部にはそんな評判がありますし。

従業員に低賃金で長時間労働させれば、短期的には企業は利益が上がるかも知れませんが、長い目で見ればそれは社会全体を、経済も文化も荒廃させていくことになるのでしょう。逆に人々がもっと余暇を楽しめるようになれば、社会全体も活性化するでしょうし、何より人々がもっと幸福感を感じて生きられるようになるのではないかと思います。

さらに言えば、芸術作品の中には予備知識があってこそ多く楽しめるというものもあります。私事ですが、私は昔、日本の古典と言えば教科書で習うようなものを少し読んだくらいで、天皇の歴史を伝えるものとしては古事記くらいしか読んだことがありませんでした。そしてその古事記の印象がだいぶ悪かったので、私は、天皇制がこのようなものの上に成り立っているなら、天皇制はとうてい受け入れがたいものだと思っていました。
しかし後になって、時間や気持ちに余裕ができてきた時期に、日本書紀続日本紀風土記平家物語太平記などを読んで、私はこうしたものについての理解が深まり、天皇制や日本文化のことをもっと肯定的に見ることができるようになりました。そのせいで今では象徴天皇制支持者ですし、一部の人々が「日本とはこういう国なんだ」とおかしな主張をした時に、「それはおかしい」と言えるようにもなりました。
また、日本の古典の中には中国古典や仏教経典からの引用がしばしば見られますが、これらも読むことで古典への理解が深まりました。また、日本書紀平家物語のような後世への影響が大きい作品を読んだことで、他の作品への理解も深まりました。

しかしこうしたことは、当時の私が時間にも気持ちにも余裕があって、古典を読めるだけの環境があったからこそできたことです。私も一時期、毎日の長時間労働でニュースを見る時間さえなかった時期がありましたが、その時期なら決してこんなことは出来なかったでしょう。それに、当時も今も、私は金銭的にはあまり余裕がありませんが、もし余裕があればもっと文化にお金を使っているでしょうし、そうすればこうした文化を提供する側も豊かになって、もっと良いものを提供できるようになるでしょう。生存権が「健康で文化的な」最低限の生活を求めているのも由なきことではないと思う次第です。