empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

メディアについて

たまに「新聞やテレビのような既存のマスコミは信用できないから」といって、ネット上で得た情報から「真実」を知ったと言う人がいます。いわゆる「ネットde真実」というやつです。
こういうものは大抵いい加減で、既存マスコミよりも信用できない情報ですが、ネットだからといって全てが間違いとも限りません。要はネットだろうとそうでなかろうと、より信頼性の高い情報を得ることが重要と思います。
 
私たちの日々の決定は何らかの情報にもとづくもので、まれに例外があるとしても、基本的には、正しい情報にもとづいた決定は正しいもので、誤った情報にもとづいた決定は誤りとなると言えます。
政治の世界でも、デマやフェイクニュースが流され、それにもとづいて決定がなされてしまうことへの懸念が従来から指摘されています。なので、こうしたメディアについての私の考えを書いておこうと思います。


そこでまず言うべきなのは、本当に間違いなく、確実に正しいと言えるような情報はそうそう無いということです。
というのは、天動説ではなく地動説が正しいとされた時のように学問の常識が変わることもありますし、その時代の雰囲気や世相のために、自分の認知にバイアスがかかっていることもありますし、極端な話、私たちが見ている世界は実は幻覚であるかも知れないし、実はこの世界は5分前にできたもので、私たちの持っている記憶は5分前に何者かによって植え付けられた偽の記憶かも知れないからです。
とはいえそれでも、人の社会は人々の共通の認識の上に成り立っているものですから、その時に十分確からしく思えることにもとづいているのであれば、その情報にもとづく決定は、たとえ後から間違いだったと分かったとしても、道義的には正当なものだと言えるでしょう。

その上で情報源について言えば、まず一つには自分自身で直接見聞きした情報、つまり経験があります。これはある意味最も信頼できる情報源ではありますが、それも個人的な思想信条からバイアスがかかっていたり、枯れ尾花を幽霊と見間違えるようなことがありますから、確実とは言えません。他の人の意見も聞いてこそ、より正確に事実を把握できることがあるのは、誰しも知っていることでしょう。
また、直接見聞きしていなくても、論理的な推論から導かれる結論も信頼性が高いと言えます。朝起きた時に地面が濡れていれば、それは寝ている間に雨が降ったことを意味しますし、夏の日であれば、朝はさほど暑くなくとも、これから暑くなるはずだと言えます。

自分の直接の経験は情報を得る基本ですが、遠く離れた場所での出来事や、自分では容易にアクセスできないような政治の世界や企業での出来事などは、自分だけでそれを直接見聞きすることはまず不可能です。ですから、そういったことは他人から伝えられる情報を元にして知るわけで、それがメディアの役割でもあるわけです。

そうしたメディアとしては、まずマスコミと呼ばれるものとして新聞社やテレビ局などがあります。
無論マスコミも、人が作っているものですから、必ずしも正確な事実を伝えてくれるとは限りません。彼ら自身も事実誤認しているかもしれませんし、時には意図的に誤った情報を伝えることさえあるかもしれません。

しかしながら、そうした新聞社やテレビ局などは、自らの所在地や責任者が誰であるかや、記者の名前などを公表し、取材対象からは独立した立場で、「事実を伝える」という名目で報道を行い、それを広く一般に伝える事と引き換えに報酬を受け取っています。つまり、公的な、責任ある立場でそれを行っています。
また、そうしたマスコミは複数あって他社と競合しており、伝える情報に難があれば、他社に客をとられるという立場で、リスクを負いながら報道を行っています。

ですから、一般的に言って、マスコミは伝えるべき事を伝えなかったり、伝え方が偏っていることはあるでしょうが、明らかな嘘をついて人を騙すようなことは、基本的にない「はず」なのです。それは一般的に言って、人間関係においてもそのような立場の人は事実を言っている「はず」だというのと同じ意味で、です。

だからこそ、マスコミが偏っていたり誤報があったりすれば批判されるべきですし、かつて朝日新聞誤報を伝えた時には、(多分誤報そのものとは別の理由から)過剰とも言えるような叩きかたをされましたが、朝日新聞も甘んじてそれを受けていたわけです。

この事に限らず、人の社会は「信用」があってこそ成り立っているものですが、マスコミはそのような責任とリスクを負うことでその信頼性を担保しているわけです。ですから、逆に言えば、このような担保が少なければ少ないほど、その信頼性も少なくなるでしょう。ですから、マスコミが取材対象の政府と癒着した関係であることは批判されるべきであるわけです。


またマスコミとは別に、政府や省庁などの公的機関からの発表もあります。これもまた、マスコミと同じような理由から、基本的に正しい「はず」だと言えます。つまり、彼らは国内において最も公的な立場で、天下公民に対して責任を負うという立場でそのような発表を行っているからです。

そしてだからこそ、公文書の改ざんは大問題であるわけです。それは責任ある公的な立場の人間の背信行為なのですから。

そして政府や省庁の場合にも、やはりその信頼性を担保するリスクが必要だと言えます。ですから、政府が誤った発表をすれば、メディアから批判され、市民からも批判されて、罷免されるかも知れないというリスクを負っているわけです。
そしてまたこの理由から、例えば独裁体制の国の発表などは、その信頼性は低いと言えるでしょう。つまり、為政者が失政を重ねたり、不正を犯したり、嘘をついたりしても罷免されず、処罰もされず、責任も問われないような体制であったとしたら、その体制から発表される情報の信頼性は、そうでない場合と比べて著しく劣ると言わざるを得ません。


またこうしたメディアとは別に、ネット上の情報もあります。ネット上の情報についても、新聞社やテレビ局や省庁などが公式に発表しているものは、前と同じ理由でまずは信頼できるものだと言えるでしょう。
しかし、例えば匿名の掲示板で匿名の誰かが話すような情報などは、やはり前と同じ理由で疑わしいと言わざるを得ません。つまり、そのような発言者は自分の発言にほとんど何の責任も負っていないからです。そればかりか、ネット上ではデマやフェイクニュースを流して金を儲けている人々もいます。

無論ネットの情報だからといって間違いだとは限りませんし、もしかしたらそれは他では得られない貴重な情報なの「かも」しれませんが、こうした情報はそのまま受け入れるのではなく、裏を取ることが必要であり、裏が取れない場合には、事実か否かはとりあえず不明だとするべきでしょう。また、すでに確実な情報として得られているものと明らかに相反しているものや、明らかに論理的におかしいものなどは、まず信用できないと言うべきでしょう。


人の社会は互いへの「信用」があってこそ成り立っていますし、だからこそ、その信用を担保するような仕組みも必要になってきます。社会のさまざまなチェック機能も、その一部だと言えます。そしてこれは最近になっていわれだしたことではなく、古くからその必要性の実感されてきたことでもありますし、それは自然の勢いとして当然なことでもあると言えるでしょう。
十七条憲法でも云われていますが、「“信”は道義の根本である。何事にも信義がなくてはならない。ことの善悪成否は必ず信義による。群臣ともに信義があれば、何事も成らないことはないだろうが、群臣ともに信義がなければ、ことごとく失敗するであろう」(九条)というわけです。

RADWIMPSのhinomaru炎上で思ったこと

RADWIMPSの“hinomaru”という愛国ソングが、その歌詞が戦前の大日本帝国(以下、日帝)や軍歌を思わせるというので多くの批判を集めた事件がありました。
RADWIMPSの方ではこれを受けて「日帝賛美や軍国主義の意図はなかったけれど、そう受け止めて感情を害した人がいるなら謝ります」という趣旨の謝罪をすることになりました。が、後のライブでこの曲を歌った際には、「歌詞の内容」が批判されているのにもかかわらず、「自分の国が好きで何が悪い!」とちぐはぐなことを叫んだらしく、(素で言っているのかわざと炎上するようなことを言っているのか分かりませんが)結局人々の意思はすれ違ったままで終わったような気がしました。

私がこの事件で問題だと思ったのは(Twitterで山崎某氏も同じようなことを言ってましたが)、RADWIMPS自体の問題というより、日本人が愛国的なものを作ろうとするとどうしても「日帝っぽく」なってしまう、あるいは作り手にそんなつもりがなくとも、受け手がそのように受け止めてしまう、ということでした。(RADWIMPSが言うようにhinomaruの歌詞はそれ自体を見れば必ずしも日帝賛美とは言えないように思いますし)

そして思ったのは、やはり日本の戦後処理はあまりうまくいかなかったんだな、ということでした。それは日帝についての「反省が足りない」というような情緒的な問題ではなく、戦後の日本が、日帝に替わるような新しい「価値」を作ってこれなかった、あるいは作ったにしてもあまり人々の間に根付かなかった、ということです。日帝が悪いということは分かっていても、それに替わるものがなければ結局は日帝に帰っていかざるを得ないわけで、だから「愛国」を表現しようとするとどうしても日帝っぽくなってしまうのでしょう。ですから、日本の戦後が終わるためには、過去の日帝とは決別した新しい「日本」を「これから」作っていかなくてはならないのだろうと思います。戦後その作業を怠ってきたわけですから。

私がそれに加えてもう一つ思ったのは、「文化」にお金を使うということの難しさでした。
私は、RADWIMPSがこういう物議を醸すような曲を作ったのは、たとえ批判を集めることは分かっていても、確実に一部の層には売れる、と見こんでのことだったのではないかという気がします。日本には「愛国」に過剰に入れ込む層が一定数いるというのは周知の事実ですし、書店で外国への敵意や自国の優越感を煽るような本が売れていることからしても、愛国を標榜すれば一定の需要は見込めると判断してもおかしくありません。

現在の日本では音楽業界も出版業界も不況が長く続いているそうですし、道義的に問題があり、多くの批判があると分かっていても、とにかく「売れる」ものを作らなくては、と供給側が思ったとしても不思議ではないでしょう。結局、需要と供給が見合わなくては商売にならないわけですし。

芸術作品といえども、対価を受け取って「売り出して」いる以上は、本当に純粋に芸術的な意図のみでできるわけではなく、やはり「売れる」ものでなくてはならない。つまりは人々がそれにお金を出してくれるものでなくてはならないということでしょう。

もちろん、そういう道義的に問題があるようなものでなくとも、もっと健全な芸術作品はあります。
しかし、改めてこういう「文化」にお金を使うということについて考えてみると、例えば休日に美術館に出かけたり、音楽を聴きに行ったり、映画を見に行ったりということは、お金や時間に余裕があり、精神的にも余裕があってこそ楽しめることであるわけです。
人々の大多数が、毎日、低賃金で長時間労働、少ない休日には疲れ果てて家で寝ているというような生活をしていては、このような「文化」にお金を使うことなどできないでしょうし、そうすればこのような文化を提供する側も、客が減って収入が減り、経営が難しくなって衰退していく、そして結局は社会全体で、文化も経済も衰退していくということになるでしょう。
それでも供給側が生き残ろうとすれば、道義的に問題があってもとにかく「売れる」もの、こう言うと語弊があるかも知れませんが、低俗で原始的な本能に訴えるようなものばかり売り出すようになり、こうして文化が荒廃していくということにもなるのでしょう。すでに出版業界の一部にはそんな評判がありますし。

従業員に低賃金で長時間労働させれば、短期的には企業は利益が上がるかも知れませんが、長い目で見ればそれは社会全体を、経済も文化も荒廃させていくことになるのでしょう。逆に人々がもっと余暇を楽しめるようになれば、社会全体も活性化するでしょうし、何より人々がもっと幸福感を感じて生きられるようになるのではないかと思います。

さらに言えば、芸術作品の中には予備知識があってこそ多く楽しめるというものもあります。私事ですが、私は昔、日本の古典と言えば教科書で習うようなものを少し読んだくらいで、天皇の歴史を伝えるものとしては古事記くらいしか読んだことがありませんでした。そしてその古事記の印象がだいぶ悪かったので、私は、天皇制がこのようなものの上に成り立っているなら、天皇制はとうてい受け入れがたいものだと思っていました。
しかし後になって、時間や気持ちに余裕ができてきた時期に、日本書紀続日本紀風土記平家物語太平記などを読んで、私はこうしたものについての理解が深まり、天皇制や日本文化のことをもっと肯定的に見ることができるようになりました。そのせいで今では象徴天皇制支持者ですし、一部の人々が「日本とはこういう国なんだ」とおかしな主張をした時に、「それはおかしい」と言えるようにもなりました。
また、日本の古典の中には中国古典や仏教経典からの引用がしばしば見られますが、これらも読むことで古典への理解が深まりました。また、日本書紀平家物語のような後世への影響が大きい作品を読んだことで、他の作品への理解も深まりました。

しかしこうしたことは、当時の私が時間にも気持ちにも余裕があって、古典を読めるだけの環境があったからこそできたことです。私も一時期、毎日の長時間労働でニュースを見る時間さえなかった時期がありましたが、その時期なら決してこんなことは出来なかったでしょう。それに、当時も今も、私は金銭的にはあまり余裕がありませんが、もし余裕があればもっと文化にお金を使っているでしょうし、そうすればこうした文化を提供する側も豊かになって、もっと良いものを提供できるようになるでしょう。生存権が「健康で文化的な」最低限の生活を求めているのも由なきことではないと思う次第です。

右傾化と宗教

以前にも似たような記事を書きましたが、日本や世界に見られる右傾化の原因には、外的な要因としてはテロリスト集団や一部の国の軍事的圧力に対する懸念などがあり(しかし、しばしば現実の脅威だけでなく、脅威としてでっち上げられたデマやフェイクニュースや、こうした外敵の政治利用なども混ざっている)、またそうした外的な要因だけでなく、内的な要因として、人々が精神的に、また社会的に不安定な状態にいるために、よりどころとして「自らの集団への帰属意識」が求められているということがあると思います。

多分2008年くらいのニュースですが、ロシアでネオナチが大量に見られるようになったというニュースをNewsweekで見たことがあります。そして、かつてのソ連ナチスと戦う立場であったのに、なぜネオナチが台頭してきたかといえば、それはソ連の崩壊で、社会的なイデオロギーや、教育や就職などの公的なサービスが一体化して提供されていたのが無くなってしまい、人々は社会の中でどのように生きて行けばいいのかというガイドラインに迷うようになったので、こうしたイデオロギーを提供するものとしてネオナチが台頭してきたのだろうと考察されていました。

日本における右傾化にもこうした傾向が見られるように思います。つまり、右翼的なイデオロギーというのは、自分がどういうルーツを持ち、どういう集団の一員であるのか、自分がどのような社会的役割を持ち、どのような使命を果たすべきなのか、そして戦うべき自分の「敵」は誰なのか、といった答えを人々のために用意してくれるものなので(それが妥当か否かはともかく)、アイデンティティーの不安定な若者や、人生をどのように生きていけばいいのか迷っているような人、社会の中で疎外されていて帰属意識を持てないような人を引きつける力があるのだと思います。
その上、現代の日本ではこうした答えを人々に与えてくれるようなイデオロギーが希薄であったので、人々にいわば精神的な空白地帯が生じているので、そこにこうした右翼思想が広がる土壌ができていたのだと思います。

そしてこうしたイデオロギーは、自分のルーツや果たすべき役割などの問いに対しての答えがそろっているという点で、一種の宗教的な傾向も持っているように思います。ナチズムにも宗教的な傾向がありましたが、日本の場合は単に宗教的な傾向にとどまらず、本物の宗教団体が直接関わっていることもあるので、その点とても危ういものを感じます。言ってみれば、イスラム圏の国々におけるイスラム原理主義に近いものさえ感じます。

以前の記事でも書きましたが、かつての大日本帝国もまた、国家神道に支えられていた政教一致の体制だったと思います。そしてこういう、分かりやすい政教一致の体制が、一部の人々を引きつけるだろうことも分かります。それは、思想信条を同じくしない人々には、理不尽な苦しみを与えるものなのですが。


私は自分ではそこそこ愛国心があると思っていますが、私はこの国を宗教的なものとしてではなく、あくまでも世俗的なものとして愛しています。天皇にも敬意を払っているつもりですが、神としてではなく、あくまでも人間の君主として敬意を払っています。

政教分離は、主観的な信条に基づいて政治が行われないためにも必要ですが、人々の思想の自由を守るためにも必要なものだと思います。国にありながら国に思想を縛られないでいてこそ、本当に自由な国でもあり、それでこそ愛国心を持てるだろうとも思います。