empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

Just the two of us

昔聴いた曲をたまたまYouTubeで見つけたので紹介しておきます。

〝Just the two of us

Grover Washington Jr - Just the two of us



ストレートで美しくかつポジティブな曲です。ジャズの世界では名曲として有名らしい。

歌詞はこちら
http://musiclyrics.blog.jp/archives/29500942.html


音楽のサイトなど見てみますと、これは1980年発表のもので、アーティストはGrover Washington,Jr.(グローヴァー・ワシントン・ジュニア)という人ですが、それは演奏している人のほうで、歌っているのはBill Withers(ビル・ウィザース)という人です。

ところでこの曲はジャズですが、辞書によるとジャズは独特のリズム感と「即興演奏」が特徴なんだそうです。
kotobank.jp

即興ということは、この録音されたものと全く同じ曲は2度とはできないということか…

また、不幸な歴史を背景としてではありますが、多様な文化的背景を持ちつつ融合してできたジャンルというのもアメリカらしいですね。

「正社員と非正規の格差をなくそう」→正社員の待遇を下げる??

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「正社員と非正規の格差を是正する」という法を受けて、非正規の待遇がよくなるのかと思いきや、正社員の待遇のほうが悪くなってしまいそうです。(有料記事なので最初のほうしか読めないですがあらましは書いてある)

 

www.nikkei.com

 来年4月、賃金や手当、福利厚生すべてについて、正社員と非正規社員の格差を埋めようとする同一労働同一賃金関係2法が施行される。格差是正のため、企業は正社員側の家族手当や住宅手当の縮小を始めているが、正社員の気持ちは生活保障給の一部である手当削減に追いつかない

 


違う。そうじゃない……そうじゃないんだ……

 

格差是正って言ったら非正規の待遇のほうを引き上げるって思うじゃん?

 

実際には正社員のほうの待遇が下がって、「下に合わせる」ことになってしまいそうです。

(まぁ企業からすればコストカットしようという発想になるのは当然と言えば当然ですから、こういうことは企業に任せておいてはいけない、こういう事態を想定しておくべきだったとも言えるでしょうが)


ここから更に、正社員側が「非正規のせいでこんなことになったんだ!非正規許せない!」と非正規に敵意を向ける……なんてことにならないですよね?

 

ならないとは言い切れないのが悲しい。でもそうなったら、それは上手いこと「分断統治」にはめられているということになりそうです。

 

江戸時代じゃないんだから、「上見て暮らすな下見て暮らせ」な発想はもうやめましょう。皆で上に行こうじゃないか。現代は君主制の階級社会じゃない。民主制の社会なんだから……

 

 


ところで民主制と言えば、これと同じような意味で使われる言葉に「共和制」というのがあります。

私は個人的にはこの言い方のほうが好きなんですが、その意義は以下のように解説されることがあります。

kotobank.jp

 

世界大百科事典 第2版の解説
きょうわせい【共和制 republic】
ラテン語の原義(res publica=共同のもの)が示すように,本来,ある政治社会が,ある特定の個人ないし階層の私物ではなく,構成員全体のものであり,全構成員の共同の利益のために存在しているとみなされる体制をいう。古代ギリシアのポリス,あるいは,共和制ローマにおけるキウィタスの観念は,このようなものであり,それを支えるのが,市民の政治的・人倫的卓越性(徳)であるとされた。ローマが帝政期にはいり,帝国が皇帝の私物とみなされるようになると,共和制の観念は,批判的・理念的価値をもつようになる。

出典|株式会社平凡社

 

 

「本来,ある政治社会が,ある特定の個人ないし階層の私物ではなく,構成員全体のものであり,全構成員の共同の利益のために存在しているとみなされる体制をいう。…それを支えるのが,市民の政治的・人倫的卓越性(徳)であるとされた」

 

私はこの観念にほぼ全面的に同意できます。

だからこそ、一部の階層を攻撃して私利を計ろうとするのではなく、皆で利益を得られるようにしたいと思っています。いわゆる「公共の福祉」というやつですね。

現代では「共和国」を名乗る一部の国のせいで悪いイメージがついているかもしれませんが(「人民」とかもそうですが)、本来は共和制という語彙とその意味は良いものだということは言っておきたいです。

(社会的)弱者という言い方

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貧困だったり病気や障害があったりする「社会的弱者」のことを、単に「弱者」と言うことがあります。
それで福祉を切り詰める政策を「弱者切り捨て」と呼んだりもしますが、個人的にはこの弱者という言い方はやめたほうがいいと思います。

なぜなら、単に「弱者」というだけでは、それが貧困なのか病気や障害なのか高齢者なのか外国人などの少数派なのかといった、「何」が問題なのかが分からなくなるし、また言う側にはそのつもりがなくても、「弱者」と言うことでどこか見下しているような印象を受けかねないからです。
そしてこう呼ばれる側のほうでも、弱者と呼ばれることに反感を感じて、それを自分に当てはめて考えなくなるかも知れないからです。

なので、それを言うなら貧困とか病気とか障害とか個々の事例で言うほうがいいと思いますし、あえてまとめて言うなら「社会的弱者」と言うほうがいいだろうと思います。


ところで、いわゆる新自由主義のような経済格差を生み出す政策を「弱者切り捨て」「弱肉強食」と呼んだりもしますが、これもあまり正確な言い方ではないように思います。

なぜなら、この場合の「強い」「弱い」とは何のことなのかと言えば、それはつまるところ「経済力」であり、さらに言えば「商才」だからです。

もちろん商才は生きていく上でとても重要な能力の一つではありますが、別にそれが「能力」の全てというわけでもありません。

世の中にはスポーツは得意だけど商才はないとか、学問には長けているけど商才はないという人もいるでしょう。しかしそれは商才とはまた別の種類の「能力」なのです。
しかし、単に経済力のみでざっくり「弱肉強食」と言ってしまうと、商才だけが価値あるもので他は無価値のような印象にもなりかねません。

最近、大学の医療の研究に「企業のニーズに合わない」という理由で予算がつかなくなることがありましたが、そのように企業にとっての需要だけで研究を取捨選択することで、社会はより良くなり人々の利益になるかと言えばそうでもないでしょう。ここにも、ざっくりした「強さ」「弱さ」という言い方の弊害が、一部現れているのかもしれません。