empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

人間の「平等」について

f:id:empirestate:20200320180103j:plain
平等とは互いに等しく差別がないことを言います。
kotobank.jp

大辞林 第三版の解説
びょうどう【平等】
( 名 ・形動 ) [文] ナリ 
①差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。 ⇔ 不平等「 -に扱う」
②近代民主主義の基本的政治理念の一。すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること。 「自由、-、博愛」
③〘仏〙 真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること。 ⇔ 差別しやべつ

(最後の〘仏〙は仏教用語の意味)


現代社会では人々の間の平等が前提となっていて、例えば憲法の平等規定とか世界人権宣言の平等規定とかがあります。

しかし一方では、人々の間には、生まれながらに貧富の差があったり、社会的地位の差があったり、ある種の能力の差があったり、生きている環境の良し悪しがあったりするので、これを見て「世の中に平等なんてものはない。人は生まれつき不平等なのだ」という声もあります。

しかしながら、この手の不平等さというのはいつの世にもあったもので、古今の「人間の平等」を訴えてきた人々は、そんな格差がこの世に存在することさえ知らなかったのかと言えばそうではないでしょう。

では、この「平等」とはどういう意味なのかと言えば、自分としては、それは人間としての本質的な平等であって、全てにおいて全ての人々が等しいという意味ではない、と考えます。


世の中には色々な人がいますが、人は共通に、それがあることによって人であると呼ばれる性質を持っています。つまり人性、人間性を持っています。

kotobank.jp

大辞林 第三版の解説
にんげんせい【人間性
人間を人間たらしめる本性。人間らしさ。


なにをもって人間性とみなすかは文化圏や思想によって多少違いますが、一般的には、精神的に言えば理性や良心や社会性を持っていること、種族的に言えば共通の祖先を持つヒト属の種族であることが挙げられるでしょう。

そしてこの性質は人類に共通のものであって、だからこそ色々な違いがあってもやはり「人」であると呼ばれます。ですから、人間の平等とはこの人間性に基づくものであると私は思います。


ところで、オスとメスの違い、雌雄の違いというものは人間だけでなく動物にも、ある種の植物にもありますが、しかし彼らはあくまでも動物(植物)であって人間ではありません。つまり、人間性とは男であることや女であることとは別のことなのです。そしてこれは、背が高い人や背が低い人、色が白い人や色が黒い人など、その他の違いにも言えるわけです。

この観念は言語にも現れています。というのは、「男の人」「女の人」と言っても「人」であることには変わりないし、「日本の人」「中国の人」「アメリカの人」と言っても、「背が高い人」や「背が低い人」と言ってもやはりそうだからです。(もちろん、こうした性質の違いによって人々の間に差異が現れてくることもまた事実ですが)

こうした観念は法律にも現れていて、例えば日本の刑法の殺人罪では、人を殺した者は死刑または無期懲役、または5年以上の懲役となっていますが、古代のいくつかの法律のように、「自由人を殺したら死刑だが、奴隷を殺したら罰金で済む」という如き規定はありません。つまり、命の価値は身分によって変わるものではなく等しいとされている、と言えます。

またこうした観念はいくつかの宗教にも現れていて、ある種の宗教では生まれつきある民族の一員でなければ信者になれなかったり、信者になれても血統によって低い地位に置かれたりしますが、世界宗教と呼ばれるような仏教、キリスト教イスラム教などでは、生まれや地位に関わりなく信者になれて、そこで課せられた条件を果たせば誰でも救われるものだとみなされています。(信者が差別しないとは言わない)
またこれらの宗教では、人類の本質的な平等を謳っていることも一つの特徴です。



一方で、社会的な地位の違いという点では、確かに世の中には「平等ではない」関係があります。
その中には不当な差別もありますが、しかし、必ずしも全ての上下関係が不当というわけでもありません。

ではどういうものが正当な上下関係なのかと言えば、例えば次のようなことがあります。


f:id:empirestate:20200321180113p:plain
船で航海をする時には、誰かが船長になって、他の乗組員は彼の指導に従って働きます。また一般の乗客がいるなら、彼らもまたその指導に従います。

これは一種の上下関係ですが、これが正当なことである理由には、その船長が航海についての知識と技術に長けていて、他の人々はもし彼の指示に従えば首尾よく航海を成功させて無事に陸地に戻れるけれど、もし従わないなら、航海は失敗して船は難破し、生きて陸地に戻れなくなる可能性が高い、ということがあります。

つまり、船長がその指導的な地位にあるのは、彼が航海の能力に長けていて、他の人々を導くことができるからで、その船に乗る人々の共通の利益のために、彼はその地位に就いているわけです。だからこそ、彼のその地位は正当なものであると言えます。

一方で、この同じ船長が、自分の専門分野でもないのに、料理人の間で料理長になろうとしたり、病院の医院長になろうとするなら、それは不当なことだということになります。

そしてこれと同じことが、料理人とか医者とか、政治家とか企業経営者とか、軍事指導者とかにも言えるわけです。つまり、こうしたある分野での指導者は、その分野での能力に長けているから、その共同体の利益のためにその地位に就いているのであって、本質的に他の人々より高貴な種族というわけではありません。ある種の能力に長けているとしても、彼はやはり人間であって、神ではないからです。

現実では必ずしも能力によって決まるわけではないでしょうが、原理的には以上なようなものだと存じます。

立場の違いということ

例えばの話ですけど、もしアメリカで白人至上主義者で差別主義者の政治家が増えてきたなら、黒人やアジア人の住民はそれに脅威を感じ反発するだろうと思います。
なぜなら、その人たちにとってそれは死活問題になり得るからです。

一方で、白人の住民なら、「確かに悪いことではあるけど、そこまで気にすることではない。それより、経済や外交でもっと重要な政策を進めてほしい」と思うかもしれません。もちろん、強く反発する人もいるでしょうが。

イスラム教圏でイスラム主義が台頭してくれば非イスラム教徒は脅威を感じるでしょうが、イスラム教徒はさほどでもないかもしれません。
共産主義国で宗教への弾圧が起こってくると、信者は脅威を感じるでしょうが、無宗教者はさほど気にしないかもしれません。

これと似たような問題は、日本でも他の国々でも起こることでしょう。


また、政府の政策で税金の負担が増えて社会保障が削られる場合、貧困層はそれに脅威を感じ反発するでしょうが、富裕層ならさほど気にしないかもしれません。


また、男尊女卑的で女性差別を助長するような思想や制度がある場合、女性はそれに脅威を感じ反発するでしょうが、男性ならさほど気にしないかもしれません。



こうした立場の違いによって観点の違いが出てくるのは自然なことだとは思います。
実際、人はそれぞれ違う立場でそれぞれの人生を生きているわけですし、その立場だからこそ気付けること、というのも多分あるでしょう。

しかし、一般人ならともかく、政治家なら、自分と自分の身内の利益だけを求めて行動するのではなく、広く一般の人の利益ために、公共の福祉のために行動する必要があるはずです。

国会議員は広い意味では公務員であり、公務員は一部の奉仕者ではなく「全体の奉仕者」だからです。

kotobank.jp

世界大百科事典 第2版の解説
こうむいん【公務員】
大日本帝国憲法下では,官吏,公吏などの言葉が使われていたが,国民主権日本国憲法下では,国民の公僕という意味をこめて公務員という言葉が主として使われるようになった。 実定法上,最も広い意味では,国または地方公共団体の公務に従事するすべての者をさす。したがって,広く国会議員や地方議会の議員も含まれる(日本国憲法15条2項に規定された公務員)。しかし,一般的に公務員という場合には,公選による議員を除いたそれ以外の公務を担当する職員をさす。

(狭い意味では議員が公務員に含まれないのは、議員を含む特別職は国家公務員法地方公務員法ではなく個別の法律の規定を受ける立場だからのようです)

www.shugiin.go.jp

日本国憲法第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

さらに言えば、民主制の国では国民が主権者ですから、国民もまた社会に対して何かしらの責任を持っているわけです。

もとより、民主制でなくても、伝統的に自分と自分の身内の利益だけを求めて行動し、他を捨てて顧みない者は非難されてきたものです。

自分の利益だけでなく広く公共の福利を求めるなら、それが公益心であり社会性があることだと言うべきでしょう。

家族と企業と国家の違いとか

儒教的価値観の影響が強い社会では、家族での人間関係を元にして、そのやり方で国家や企業も運営される傾向があるように思います。

孟子の言うように、子は親を敬い、親は子を慈しみ、こうしたやり方で身近な家族を治め、それを一般の人にまで及ぼして国家を治め、さらに広く及ぼして天下を治める、というわけです。
さらにまた、君主のほうでも自分の親を敬い子を慈しむと、それに習って人民のほうでも家族を大切にするようになるだろう、というわけです。
それで、こうした文脈では君主や官吏が「民の父母」と言われたりもします。

こうした価値観の影響からか、東アジアでは国家の政治も、企業の経営も、家族的なやり方で行われる傾向があるように思います。(東アジアに限ったことでもないでしょうが)
こうした価値観が日本でも受け継がれてきたことは教育勅語からもわかります。いわゆる「日本型経営」もその派生系かもしれません。


しかしながら、家族と企業と国家とでは、「人の集まり」という点では同じでも、その性質が異なっているので、同じやり方がそのまま有効だとは限らない、とも思います。


つまり、家族というものは、(常にそうとは限らないものの)一般に血縁関係にある者同士の集まりであり、その構成員は幼少からお互いを親しく知っていて、また同じところに住んでいて、普段の日常生活を共にしている集団です。
また、扶養関係はあるものの、労働契約によって成り立つ関係ではなく、何か労働をしてその対価としてお金を受け取る、という関係でもありません。
また、社会状況にもよりますが、家族とは比較的小規模な集団であって、大家族であってもそのメンバーは20人を超えることは少ないでしょう。


これに対して、企業というものは、そのメンバーは基本的に血縁関係にあるわけでもなく、幼少からお互いを親しく知っているわけでもなく、普段の日常生活を共にしているわけでもありません。
また、基本的に企業は労働契約によって成り立っている関係で、何か労働をして、その対価としてお金を受け取る関係というのが基本です。(もちろん、労働契約とは別に仕事仲間と個人的に親しくなることはあり得ますし、それは望ましいことでもあるでしょうが、しかしそれが企業の本質というわけではありません)
また、企業はその規模にもよりますが家族よりもずっと大規模になり得るもので、その従業員は数千人数万人やそれ以上にもなることがあります。


また、国家の場合は、企業に比べるとやや家族に近いところがあって、そのメンバーは何らかの原理原則や歴史的背景を共有しているものだと見なされます。多民族国家なら民族的ルーツも多様ですが、政治的には何かしら統一の原理を持った集団だと見なされます。

とはいえ、そのメンバーのほとんどはお互い個人的に面識があるわけでもなく、幼少から交流があって日常生活を共にしているというわけでもないので、こうした連体はより理念的な、あるいは名義的なものでもあります。

また、一般に国民は国家に納税して公共のサービスを受ける関係ではありますが、労働契約というわけではなく、働けないからといって解雇されるわけではありませんし、定年で国籍がなくなることもありません。
また、これも国家の規模によりますが、その人口は企業よりもはるかに大規模なものになり得ます。国によっては何億人、十何億人もの人口があります。


そんなわけで、家族と企業と国家にはこうした性質の違いがあるわけですから、おのずからそれを「治める」やり方も違ってくるはずです。またこの他の共同体にも、それに適したやり方があるでしょう。

まあ一般に家族間で培った人間関係の結び方が、その後の人間関係の基礎になる、という意味では、家族が基本になるという考え方も正しいでしょうが、しかしその同じやり方がどこでも有効なわけではない、とも思います。



例えば、企業ではしばしば、サービス残業とか残業代不払いとかの「タダ働き」が問題になりますが、これも家族の間でなら普通のことだと思われます。
というのは、家族なら、何か困った時には互いに助け合い、そこに対価を求めない、というのは自然なことで、たぶん美徳でもあるだろうからです。逆に、家族間で働いたことに金銭的対価を求められたら不自然なことだとも思えるでしょう。

しかし企業は労働契約によって成り立っているのですから、本来なら「タダ働き」などはあってはならないことのはずなのです。

また、企業のためなら自分の生活を犠牲にしてまでも働き、上司や先輩とは対立を避け従うべきだと考える価値観も、たぶん家族関係でならあまり不自然ではないでしょう。一般に家族のために我が身を犠牲にする人は立派だと見なされますし、私もそう思います。しかし、企業は家族とは違う関係に基づいた集団です。
もちろん、個人的にある仕事を天職だと考え、それに打ち込むことに人生の意義があると思う人もいるでしょうが、それは一般化できるものではありません。



また国家の場合でも多分こういうことがあって、有力な政治家が家族や友人に私的に利益を誘導してやり、こうしたことを禁じた法律を守らない、ということがありますが、多分これも家族でならそれほど不自然ではないでしょう。なぜなら、家族や友人とは本来助け合うものですし、その関係は法律によって厳密に規定されるようなものでもないからです。
しかし、国家は家族とは異なった関係に基づいた集団です。
国家の成員は皆同じ民族で同じ血縁関係にあるはずだとか、そこに他の異質な集団がいてはいけないと考えるようなこともこれに当たるかもしれません。



そんなわけで、家族と企業と国家はそれぞれ異なった集団ですから、家族関係と、政治と経済とでは、異なったやり方を適用するべきだと思います。