empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

メーデー

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今日(5月1日)はメーデーでしたね。

 

メーデーは労働者の祭日だと言われています。 元々は1886年アメリカで、労働者が劣悪な労働環境の改善を訴え8時間労働を要求したことに由来していると言われています。

 

欧米の労働環境は日本に比べると労働者にとっては良好でうらやましいとか聞くことがありますが、当時はアメリカでも低賃金で1日12時間労働させられるなど日本とあまり変わらないものだったようです。

 

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メーデー 労働者の祭典。労働者が団結して権利を要求する日であり、世界的に毎年5月1日がメーデーとされている。 メーデーのきっかけとなったのは、1886年5月1日、アメリカの合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟)が8時間労働制を要求して行ったストライキ。当時の労働者は、低賃金で1日12時間以上働かされるなど、過酷な生活を強いられており、これを改善するために労働者自らが立ち上がった。3年後にパリで開かれた第2インターナショナル創立大会では、8時間労働制実現のデモを行うことが決議され、さらに5月1日を労働運動の日に設定した。これ以降、メーデーは国際社会に広がることとなった。…

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

 

 

日本では、労働者の権利を訴えたり、労働組合に参加したり、労働争議を起こしたりすると、何か変なことをしているとか、怖いと思われるとか、あるいはバカにされる傾向があるように思えますが、そういう風潮の結果が、ブラック企業の蔓延する社会なんじゃないの?と思ったりします。

 

あとは、労働者の権利を訴えることが「共産主義社会主義」のイメージにつながり、そこから「ソ連、中国、北朝鮮」のようなネガティブなイメージにつながる(あるいは、意図的につなげられる)こともしばしばあるように思えますが、別に共産主義じゃなくても労働者の権利は守られなくてはならないでしょう。

企業の経営者は立場上、自然と労働者の要求とは相反する要求を持つことになるわけですから(経営者としては、労働者が低賃金で長時間働いてくれたほうが自分の利益になるわけですし)、労働者のほうでも自分の権利を守るようにしないと、どんどんそれが侵害されていく、ということになりかねません。

 

「労働者の権利を訴えるのは悪いこと」という風潮は、ブラック企業の経営者にとっては望ましいことでしょうが、労働者にとっては害にしかならないと思います。

 

しかしまた、1886年には欧米の労働環境も劣悪だったようですが、そこから改善して今に至っているということは、日本の労働環境だって、これから改善していくことはあり得ると思います。

しかしそれには、日本人が自分の権利を主張していくようにならないと、労働環境の改善も難しいでしょう。

「外国人には現金給付するな」という言説

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コロナ禍への経済対策として一律現金給付の案が固まってきましたが、日本の一部では「現金給付するのは日本国籍を持つ者だけに限るべきで、(国内在住の)外国人には給付するべきではない」「日本人の税金を使ってなぜ外国人を助けなくてはならないのか」といった言説が持ち上がってきているようです。


私は、この現金給付の政策には主に二つの目的があると思っています。
一つにはコロナウイルスの感染拡大を防ぐための防疫対策としての意味、もう一つにはコロナ禍で経済が落ち込むことを軽減するための経済対策としての意味です。

で、防疫対策としての面を考えてみると、仮に外国人に現金給付がされなかったとしたら、彼らは生活のために働きに出なければならなくなるので、こうして彼らはコロナ感染のリスクにさらされ、そして彼らから、地域社会の他の人々にも感染が広がっていき、結局は社会全体の感染リスクが上がることになるでしょう。

また、経済対策としての面を考えてみると、外国人もこの国の領域内に住んでいるなら、この国の経済活動に参加してその一翼を担っているわけですから、外国人の経済活動が落ち込むことは、結局は日本人の経済活動が落ち込むのと同じ結果になり、こうして日本の経済全体がそのためにダメージを受けることになるでしょう。

要するに、どちらにしろ本末転倒なことになる、と私は思います。

当たり前と言えば当たり前のことですが、ウイルスには国籍はありませんし、ウイルスは人々の国籍や民族を見て、誰に感染するかを決めるわけでもありません。ことの性質からすれば、これは国と国との問題ではなく、感染が広がっている地域全体の問題だと言うべきでしょう。ですから、日本の立場からすれば、これは日本政府の統治権が及んでいる地域の問題でもあります。


また道義的な面から見ても、外国人だって人間ですし、日本に住んで税金を払っているからには、せめてそれ相当のサービスを受け取る権利があると思います。


確かに、国や国籍の存在は私達にとって小さからぬことではありますが、世の中には国とは関係なく起こる事態というものもあるのであって、コロナ禍のような疫病もその一つだと思います。これは言ってみれば自然災害と同じようなものであって、その災害が起こった地域に居合わせた人々は、共にそれに直面していることによって運命共同体であるからです。
もっとも、コロナ禍が広がっている国々で、それを政治利用する動きがあることも事実ですが。

人間の「平等」について

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平等とは互いに等しく差別がないことを言います。
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大辞林 第三版の解説
びょうどう【平等】
( 名 ・形動 ) [文] ナリ 
①差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。 ⇔ 不平等「 -に扱う」
②近代民主主義の基本的政治理念の一。すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること。 「自由、-、博愛」
③〘仏〙 真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること。 ⇔ 差別しやべつ

(最後の〘仏〙は仏教用語の意味)


現代社会では人々の間の平等が前提となっていて、例えば憲法の平等規定とか世界人権宣言の平等規定とかがあります。

しかし一方では、人々の間には、生まれながらに貧富の差があったり、社会的地位の差があったり、ある種の能力の差があったり、生きている環境の良し悪しがあったりするので、これを見て「世の中に平等なんてものはない。人は生まれつき不平等なのだ」という声もあります。

しかしながら、この手の不平等さというのはいつの世にもあったもので、古今の「人間の平等」を訴えてきた人々は、そんな格差がこの世に存在することさえ知らなかったのかと言えばそうではないでしょう。

では、この「平等」とはどういう意味なのかと言えば、自分としては、それは人間としての本質的な平等であって、全てにおいて全ての人々が等しいという意味ではない、と考えます。


世の中には色々な人がいますが、人は共通に、それがあることによって人であると呼ばれる性質を持っています。つまり人性、人間性を持っています。

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大辞林 第三版の解説
にんげんせい【人間性
人間を人間たらしめる本性。人間らしさ。


なにをもって人間性とみなすかは文化圏や思想によって多少違いますが、一般的には、精神的に言えば理性や良心や社会性を持っていること、種族的に言えば共通の祖先を持つヒト属の種族であることが挙げられるでしょう。

そしてこの性質は人類に共通のものであって、だからこそ色々な違いがあってもやはり「人」であると呼ばれます。ですから、人間の平等とはこの人間性に基づくものであると私は思います。


ところで、オスとメスの違い、雌雄の違いというものは人間だけでなく動物にも、ある種の植物にもありますが、しかし彼らはあくまでも動物(植物)であって人間ではありません。つまり、人間性とは男であることや女であることとは別のことなのです。そしてこれは、背が高い人や背が低い人、色が白い人や色が黒い人など、その他の違いにも言えるわけです。

この観念は言語にも現れています。というのは、「男の人」「女の人」と言っても「人」であることには変わりないし、「日本の人」「中国の人」「アメリカの人」と言っても、「背が高い人」や「背が低い人」と言ってもやはりそうだからです。(もちろん、こうした性質の違いによって人々の間に差異が現れてくることもまた事実ですが)

こうした観念は法律にも現れていて、例えば日本の刑法の殺人罪では、人を殺した者は死刑または無期懲役、または5年以上の懲役となっていますが、古代のいくつかの法律のように、「自由人を殺したら死刑だが、奴隷を殺したら罰金で済む」という如き規定はありません。つまり、命の価値は身分によって変わるものではなく等しいとされている、と言えます。

またこうした観念はいくつかの宗教にも現れていて、ある種の宗教では生まれつきある民族の一員でなければ信者になれなかったり、信者になれても血統によって低い地位に置かれたりしますが、世界宗教と呼ばれるような仏教、キリスト教イスラム教などでは、生まれや地位に関わりなく信者になれて、そこで課せられた条件を果たせば誰でも救われるものだとみなされています。(信者が差別しないとは言わない)
またこれらの宗教では、人類の本質的な平等を謳っていることも一つの特徴です。



一方で、社会的な地位の違いという点では、確かに世の中には「平等ではない」関係があります。
その中には不当な差別もありますが、しかし、必ずしも全ての上下関係が不当というわけでもありません。

ではどういうものが正当な上下関係なのかと言えば、例えば次のようなことがあります。


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船で航海をする時には、誰かが船長になって、他の乗組員は彼の指導に従って働きます。また一般の乗客がいるなら、彼らもまたその指導に従います。

これは一種の上下関係ですが、これが正当なことである理由には、その船長が航海についての知識と技術に長けていて、他の人々はもし彼の指示に従えば首尾よく航海を成功させて無事に陸地に戻れるけれど、もし従わないなら、航海は失敗して船は難破し、生きて陸地に戻れなくなる可能性が高い、ということがあります。

つまり、船長がその指導的な地位にあるのは、彼が航海の能力に長けていて、他の人々を導くことができるからで、その船に乗る人々の共通の利益のために、彼はその地位に就いているわけです。だからこそ、彼のその地位は正当なものであると言えます。

一方で、この同じ船長が、自分の専門分野でもないのに、料理人の間で料理長になろうとしたり、病院の医院長になろうとするなら、それは不当なことだということになります。

そしてこれと同じことが、料理人とか医者とか、政治家とか企業経営者とか、軍事指導者とかにも言えるわけです。つまり、こうしたある分野での指導者は、その分野での能力に長けているから、その共同体の利益のためにその地位に就いているのであって、本質的に他の人々より高貴な種族というわけではありません。ある種の能力に長けているとしても、彼はやはり人間であって、神ではないからです。

現実では必ずしも能力によって決まるわけではないでしょうが、原理的には以上なようなものだと存じます。