empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

「世の中にはもっと苦労してる人がいるんだ」という言説

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私達は、何か今ある苦境を訴えると「世の中にはもっと大変な思いをしている人がいるんだ」と言われることがあるかと思います。

そしてそこには、言外に「だからそれくらいで文句を言うな」という意味が込められていると思われます。

いわゆる、自分の貧困を訴えると「アフリカの子供たちはもっと貧しい生活に耐えているんだ」と言われるとか、そういうものです。
(まぁ実際にはアフリカの子供たちだってその状況は千差万別で、必ずしも貧困ではないはずですが、ここでは一例として使っておきます。)


こういう論法が有効な場面というものもあるでしょうが、よく言われるように、この論法は乱用されると人を不当に抑圧するものとなると思います。

例えば、仮にある貧しい人が自分の境遇に不満があるけど、「アフリカの子供たちはもっと貧しいんだ」と言われて黙って耐えることにした場合、その人自身は貧しいままですし、かといってこの人が自分の貧しさに耐えることによってアフリカの子供たちが救われるのかといったら、別にそんなことはなく、やはり彼らも貧しいままです。
だから結局これは「現状維持」にしかならないわけですし、その現状が望ましくないものなら、その望ましくない状態が続くことになります。


一方で、もしこの人が貧しさから抜け出す努力をして、そしてその努力が実ったなら、その人自身は貧しさから救われますし、そうしてその人が豊かになれば、そのお金を使ってアフリカの子供たちを援助することも、望めばできるようになるでしょう。
だから、これは現状を変更するやり方であり、望ましくない状態があるなら、それを改善する道です。

もちろん、人が現状を改善する努力をしたからといって、必ず望み通りの結果になるとは限りませんが、そういう不確実さは人の行為全般につきもののことですから、それはよしとしましょう。
しかし例え不確実であっても、現状が望ましくないものであり、それとは違う結果を望むのなら、その現状を動かす必要があるのであり、基本的にいってそういう状況はひとりでに改善されることはないと私は思います。


思うに、この「世の中にはもっと苦労してる人がいるんだ」という論法は、「自分はまだ恵まれているのだから頑張らなければ」という具合に自分を鼓舞するためとか、あるいは人の要求が行き過ぎていて、特に必要のないものまで求めていると思われる時に使われるものであって、現状を改善する必要があり、またそれが可能でもある時に使うものではないのだと思います。
現状の改善の必要があり、またそれが可能でもあるのなら、そうする方が、そうしないより良いことであるからです。