empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

デロゲートできない権利

非常事態では普段より個人の権利が制限されることがあって、避難指示に従うために移動の自由が制限されるとか一時的に選挙が行われないとか場合によっては財産権が制限されるとかいうこともあると思います。自分としてもそれを否定するわけではありません。

一方で、非常事態であっても制限されない権利のことが法的に規定されることもあって、これがデロゲートできない権利と言われたりもします。

 

どんな権利が制限されて、どんな権利が制限されないかは対処する事態によって異なるでしょうが、過去には国会で武力攻撃事態を想定した法の議論の中で、武力攻撃事態でも例えば思想良心の自由、信教の自由のうち信仰の自由については、それらが内心の自由にとどまる限りは絶対的な保証だと解している、しかし思想や信仰にもとづいた外部的な行為については公共の福祉の観点から制限されることもあり得ると答弁されていました。

また、検閲やメディアに対する言論の自由の制限も考えていないと言われていました。

 

ここで言われているのはつまり内心の自由とそれにもとづく言論(表現)の自由が制限されないということだと理解します。

 

普通は、人の内心を他の人が直接読んだり直接操ったりはできないので、内心の自由をわざわざ規定することに何の意味があるのかと思う向きもあるかも知れませんが、仮にこの自由が保証されないとしたら、「思想犯」と見なされた人物が強制収容されて「再教育」されたり、人が特定の宗教に強制改宗させられることも理論上はあり得るということになると思います。(思想の自由は特定の思想を持つ自由であると共に持たない自由でもあり、信教の自由もそうです)

 

ここで信教の自由のうちの信仰の自由と言われているのは、信教の自由には内心の信仰だけでなく信仰にもとづいた結社や活動も含まれるので、こうした外部的な活動についてはそれは制限されることもあり得るということだと理解します。(内心の信仰については思想良心の自由とも重複しています)

なので、カルト宗教への(法的な)対策などでも、信教の自由を前提にして、内心の信仰ではなく外部的な行為を対象にして、それが他者や社会に具体的な害悪を及ぼす場合にこれを制限するのだと言われたりします。迂遠なようでも、そこはやはり必要なことだと思います。

 

言論の自由(表現の自由)については、内心の自由に比べれば絶対的ではなく、例えば災害時にデマを流すとか憎悪を扇動する行為などは制限されるでしょうが、こうした制限は普段からかかっているものなので、そうでない範囲では基本的な権利として保たれるべきだと思います。

 

なので自分としても、こうした内心の自由言論の自由が保たれていればそれで十分というわけではもちろんないですが、そこは少なくとも守られるべきだと思います。

仮に不当な権利の制限が行われている場合でも、これらが保たれていれば、思想の自由にもとづいて発言し、その訴えによってその状態を変えるということも理論上は不可能ではないでしょうし。(実際には難しいでしょうが)

 

https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/115405053X01820020724/4

福田康夫内閣官房長官

…ただし、例えば、憲法第19条の保障する思想及び良心の自由、憲法第20条の保障する信教の自由のうち信仰の自由については、それらが内心の自由という場面にとどまる限り絶対的な保障であると解している。しかし、思想、信仰等に基づき、又はこれらに伴い、外部的な行為がなされた場合には、それらの行為もそれ自体としては原則として自由であるものの、絶対的なものとは言えず、公共の福祉による制約を受けることはあり得る。…このような絶対的に保障されている基本的人権以外の自由・権利の制約については、今後整備する事態対処法制において個別具体的に定められることとなるが、例えば、テレビ、新聞等のメディアに対し報道の規制など言論の自由を制限することは全く考えていない。

(第154回国会H14.7.24・衆・事態対処18号5頁)

 

日本国憲法で思想良心の自由が信教の自由や表現の自由とは別個に特に規定されている理由には、治安維持法などの過去の思想弾圧への反省があるという指摘があります。*1

 

治安維持法は元々は主に共産主義の運動を取り締まるために成立したもので、「国体」の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社、活動を禁じたもの(後で拡張された)でしたが、実際の運用では拡大解釈されて共産党員やその関係者でなくても、それらしい言動があればこの「目的」のために活動したと決めつけて逮捕し、拷問して「自白」を引き出すといった運用があったと言われます。(横浜事件など)

また、この「国体」が天皇によって統治される国の形と解釈されたので、一部の宗教団体の教義が国体を否定しているとして治安維持法の適用を受けたとも言われます。

 

当時は憲法上でも、言論の自由や信教の自由は、(天皇の)臣民の権利として「法律の範囲内において」や「臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」有するといった制限がかかっていたので、そこも背景として挙げられます。

もっとも、治安維持法の運用では当初から当時としても違法なことが実際には行われていたとも言われますので、そこにも問題がありそうですが。

 

なので、内心の自由の保証は必須だと思います。

 

武力攻撃事態等を想定した国民保護法では、国民の自由と権利の尊重と共に、思想及び良心の自由と表現の自由は個別に保証されていました。(ここでは信教の自由は思想良心の自由に含まれていると思われます)災害対策基本法ではこうした権利を個別に規定してはいなかったと思いますが、法の目的として社会秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを目的とするという規定があって、公共の福祉は人権を前提にした概念なので、そこに含まれるものだと思います。

インターネット上のサービスの利用規約などでも個人情報を収集する目的と範囲が定められていて、目的外の利用はしないと規定されていたりしますが、それと同じような概念だと思います。

 

一方で、生存権や財産権なども重要な基本的権利ですが、上の答弁の中でそれらが絶対的な保証としてまでは挙げられていないのは、戦争や災害のような事態では、命の危険や財産の負担を伴う措置が求められることも考えられるからだと思います。目的としてはその保護があるにしても。

もっとも、それが個別に保証されないからといって、非常事態だからというのでこの機に乗じて反政府的な人物を逮捕処刑するとか財産を没収するとかしたら、それは公共の福祉を目的とする措置ではないので目的外の利用だということになると考えます。そのためにこうした目的の規定があるのだと思います。

もちろんこうした目的を定めればそれで十分というわけではないですが、そこは必要なことだと思います。

*1:衆憲資第 43 号「市民的・政治的自由(15~21条/23条) (特に、思想良心の自由(19条)、信教の自由・ 政教分離(20条・89条))」に関する基礎的資料

日本国憲法が思想・良心の自由を特に規定した理由】

 諸外国の憲法においては、宗教の自由や表現の自由とは別個の条文で思想・良心の自由を保障する例はあまり見当たらないことを指摘したが(18 頁参照)、この理由について、芦部信喜・東京大名誉教授は次のように説明している。 「わが国においては明治憲法下において、治安維持法の運用にみられるように、交友関係とか、読書その他の行動とか、または密告によって、その抱懐する思想信条を推測臆断し、特定の思想信条に対し「国体」に反するとか、「神宮もしくは皇室の尊厳」を傷つけるとか、「私有財産制を否認する」とか、いうような理由によって弾圧を加え、内心の自由そのものを侵害する事例が頻繁に行われた。日本国憲法が、「言論、宗教及び思想の自由を強調するポツダム宣言(10 項)の精神を受け、精神的自由に関する諸規定の冒頭において、それと別個の条文で、思想・良心の自由をとくに保障した意義は、そこにある。」(芦部信喜憲法学Ⅲ人権各論(1)[増補版]』98-99 頁)