empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

トランスジェンダーのスポーツ選手はどちらの性別の試合に出るべきか

近年LGBTSの存在が社会的に認知されるようになってきたこともあって、それに属する人の社会参加も前よりは社会で認められるようになってきているように思います。

一方で、従来は男女の二分法で分けられていた社会の領域で、こうした「典型的な男女」に当てはまらない人々をどのように受け入れるべきかが問題になることもあります。

特に本人の心の性別(性自認)と身体の性別が異なるトランスジェンダーの場合(身体的には男性であるけど心が女性であるとか、身体的には女性であるけど心が男性であるとか)には、本人の性自認によって受け入れられるべきか、身体の性別によって受け入れられるべきかということが問題になることがあります。
(なお性自認というと、ともすれば単に本人の意識的な選択でその性別を自認しているかのような印象を与えるかもしれませんが、もちろんこの場合の性自認とはそういう意味ではなく、持続的で、本人の意思では変えることができない生まれつきの特性です)

よく言われる例としては、性自認が女性で身体の性別が男性のトランスジェンダーの人はスポーツの試合で女子の試合に出ていいのか、女子用の風呂やトイレを使っていいのか、といった問題です。
もっとも、実際のトランスジェンダーの人がどの程度こうした要求をしているのかはわかりませんが、もしそうした要求がある場合はどうするべきかということがあります。


自分としては、この場合、その社会的な区別が、「精神的な理由」で存在しているのか、「身体的な理由」で存在しているのかによって分けられるべきだと思います。

例えば、あるトランスジェンダーの人が自らを身体的な性別とは異なる性に属すると認め、自らをそう規定し、そのように表明し、また出来れば他者からもそのように認められる、ということ(例えば身体的には男性であっても自ら女性であると認めるとか、身体的には女性であっても自ら男性であると認めること)について言えば、これは専ら精神的な理由によるものであって(もちろんここでも「精神的な理由」というのは一時的な気の迷いや意識的な選択ではない)、この場合は本人の性自認があれば足りることだと思います。


一方で、スポーツの世界が男女で分かれているのは、精神的な理由というよりは専ら身体的な理由によって分かれているものだと思います。
なので、この場合には心の性別ではなく、身体的な性別によって分けられるべきだと私は思います。
また風呂やトイレが分かれているのも、これは精神的というよりは専ら身体的な理由によるものだと思います。なので、これは身体的な性別によって分けられるべきだと思います。


これ以外にも社会には色々と性別によって分けられる分野があると思いますが、その区別が主に精神的な理由によって存在しているのか、主に身体的な理由によって存在しているのかを考慮して、精神的な理由による場合は性自認を基準にし、身体的な理由による場合は身体の性別を基準にして分けるべきだと思います。
もっとも、はっきりとどちらか一方の理由だけで分かれているとは限らず、両方を兼ねている場合も多いでしょうが、その場合は従来の枠組みを越える(あるいは、とどまる)ことによるリスクを考慮して、それが大きなリスクであれば取らない、ということが必要であろうと思います。