empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

「いじめられる側にも原因がある」という言説

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世の中では「いじめはいじめられる側にも原因がある」と言われることがあります。
そして、この物言いは「だからいじめられる側も悪い」という意味を含んでいると思われます。(あるいは、そのように受け止められます)
また一方では、この物言いに対する反対ももちろんあります。


これについて(まず「いじめは悪いことだ」ということを前提にして)、私の意見を言いますと、いじめをする人間というのは誰でも無差別にいじめるわけではなく、いじめやすい相手を選んでいじめるものだと思います。
つまり、大人しそうだったり、反撃してこなさそうな相手だとかそういう人をです。

そういう意味では、確かにいじめられる側にも「原因」の一部はあると言えるでしょう。つまり、「それを可能にする条件」という意味での「原因」です。

しかし、だからといっていじめられる側が「悪い」のかと言えば、つまり「道義的な責任がある」のかと言えば、もちろんそんなことはない、道義的にはいじめる側が断然悪いというべきでしょう。

ですからこの場合、いじめられる側には必要条件という意味での「原因」としては原因の一部はあるけれど、道義的に「悪い」わけではない、と言えると思います。


また、世の中には「ひったくり」という犯罪がありますが、ひったくりをする人というのは誰でも無差別に狙うわけではなくて、屈強そうな若い男性を狙うことはまずなく、年を取って体力がなさそうな女性のほうを狙うものだと思います。なぜなら、その方がひったくりが成功しやすいからです。

ですから、その意味ではひったくりの被害者の側にも「原因」の一部はあると言えるでしょう。つまり、必要条件という意味でです。

しかしもちろん、だから被害者が「悪い」というわけではありません。

仮に裁判でひったくりの犯人が「あいつがひったくりに合いやすい体力のない人間だったのが悪い、だからそのぶん自分の罪を軽くしてくれ」と言ってもそれが通ることはまずないでしょう。犯罪はやる側が断然悪いのであって、被害者が悪いわけではありません。
むしろこの場合、体力のない相手を狙って犯罪を犯したというわけで、より悪質だと言われても仕方ないでしょう。


もっとも、道義的には悪くなくても、被害にあいやすい属性を持っているからには、現実的にはその人が自衛のための策を講じなくてはならない、ということはあります。ですからお年寄りは道路のそばを通らないようにするとか、道側に荷物を持たないようにするとかの策を講じるでしょう。
それは確かに必要なことではありますが、仮にたまたまその策を講じていなかった人が被害に遭ったとしても、その人が道義的に悪いというわけではなく、やはり加害者のほうが悪いのだと言わざるを得ません。


ですから、現実的に何かが起こるということと、それが道義的に(あるいは法的に)正しいかどうかということは別のことでもあります。
現実の世界では常に何かしら悪いことが起こってきますが、しかしそれが正しいというわけではないのですから。