empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

表現の自由について

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表現の自由」とは、人が事実、意見、思想、主張、感情などを外に表明する権利のことを言います。
こうした表明は主に言論によって行われてきたので「言論の自由」とも言い、出版の自由や報道の自由を含みますが、表現の自由という場合には言論や出版や報道の自由だけでなく、絵画や彫刻や音楽、また集団示威行動(デモ)なども含む包括的な言い方になっています。


この「表現の自由」の権利はまた、発信する側の権利だけでなく、それを受け取る側の「知る権利」や、発信のために調査する権利なども含めて、社会における情報の流通全体を保証する権利だとも言われます。

そしてこの権利は、個人の自己実現や社会参加や議論を通じた合意の形成など、自由で民主的な社会のために必要不可欠であるので、諸々の権利の中でも特に重要視される権利の一つでもあります。犯罪の扇動など他者の権利を侵害する表現もあるので無制限ではありませんが、これが制限される場合であっても、表現の自由には最大限の範囲が認められなければならない等の配慮がされていると言います。


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
表現の自由
ひょうげんのじゆう
freedom of expression

…思想,主張,事実などを対外的に表明する権利。政府が発表内容を事前にチェックして意にそわない場合に公表を止める,検閲からの自由である(→事前抑制)。今日においては,情報の収集・伝達・頒布という,コミュニケーションの全過程の自由がすべて保障されることが求められる。その具体的なものの一つが,情報の収集や伝達の自由が政府によって妨げられないという伝統的な自由権的側面と,公的機関が保有する情報の開示を求めることで効果的に政治選択に参画できるという請求権的側面をもつとされる,知る権利である。表現の自由は,人々がすばらしい芸術にふれたり,知識を蓄えたりすることでの人格形成,自己実現をするために不可欠であるとともに,議論を通じコミュニティにおける社会選択を実現するという意味で,自由で民主的な政治体制にあっては最も重要な権利の一つである。それゆえに,もし経済的自由が不当に制約されても,表現の自由が有効に機能していれば,その不当な規制を改廃することが可能であるという「二重の基準論」から,社会のなかで特別な保護に値する権利と理解され,優越的な地位があるとされている。日本国憲法は,21条で「言論,出版その他一切の表現の自由」(→言論の自由,出版の自由)を保障しており,その特徴として,多くの国で採用されている但書(例外)を一切認めず,さらに「検閲の禁止」と「通信の秘密(盗聴の禁止)」を明示的に規定している。これらは,戦争中の例外の拡大によって全面的な言論弾圧が行なわれた歴史の反省として規定されたものである。…

歴史的に言うと、この権利は個人主義や民主主義の発展と共に確立されてきたものだと言います。
というのも、かつては公認された宗教に反対する言論が禁止されたり、君主や政府に反対する言論が禁止されたりして、表現の自由が強く制限されてきたので、これに対抗して表現の自由が主張され、その権利が認められてきたという経緯があります。

日本においては、明治憲法(大日本帝国憲法)の中では29条で言論出版などの自由が限定的に認められていたものの、それは「法律の範囲内において」の自由であり、実際に出版法(1893年制定)や新聞紙法(1909)や皇室への不敬罪によって検閲や発禁処分などが行われ、後には治安維持法(1925)や国家総動員法(1938)などでさらに言論統制が強まっていったと言われます。

その反省から、今の日本国憲法では21条で表現の自由が但し書きなしで全面的に認められ、また検閲の禁止、通信の秘密も保証されています。


日本国憲法

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


一方で、表現の自由が制限される場合は、憲法の条文には但し書きはありませんが、一般的な格律として、自由は他者の権利を侵害しない限りで認められるというものがあります。
つまり、人には行動の自由があるけど、通りすがりの人を殴ったり他者の財産を盗んだりする権利は認められないといったもので、こうした個人個人の間の利害を調整して、相互の、そして全体の利益を確保する原理が「公共の福祉」でもあります。
憲法では13条などで「公共の福祉に反しない限り」で権利が最大限に尊重されるとされています。

なので、プライバシーの侵害や機密の漏洩、犯罪やテロの扇動などは、他者の権利や公共の安全を守るために今でも制約されると云われます。(もっとも、この場合でもその制約は必要性が明らかで最小限のものでなければならない等とも云われますが)
これについては、かつてルワンダで憎悪の扇動のために虐殺が起きた例などがありますから、こうした制限もやはりある程度は必要だと存じます。

今の刑法でも犯罪の教唆や名誉毀損などはやはり罰せられますし、インターネットのフィルタリング機能などでは「青少年の健全な育成に有害」だと見なされる表現が規制されることもあります。
また、芸術作品との境目が判断しづらい場合があるものの、わいせつ物を不特定多数に頒布や陳列する行為は今でも「わいせつ物頒布等罪」にあたる可能性があります。

また、神道、仏教、その他の宗教を問わず、何かの宗教の礼拝所に対して公然と不敬な行為をすることを罰する「礼拝所不敬罪」というものもあります。これは「一般の宗教感情」あるいは「国民の宗教感情」を保護するものだと言われます。


近年では、インターネットの発達に伴って、フェイクニュース(偽ニュース)の弊害が注目されるようにもなってきました。(もちろん偽ニュースはいつの時代にもあったものですが)
そのため、一部のメディアではファクトチェックも行われるようになってきました。

もっともこれについては、意図的にフェイクニュースを流すというわけではなく、単に意図せず間違えるということもあり得ます。

一般的に言って、誰かある人や、また特に報道機関などが何かを事実として発表する時には、それが本当に事実であるように誠実に努めるべきだと存じます。
とはいえ、あらゆることについて常に正確に事実を伝えるということは、それを確実に保証できるかといったら、それはやはり不可能でしょう。なので、それを伝えた時に、それが事実であると信ずべき相当な理由があったなら、結果的に間違いであったとしても、それを伝えた人が罪せられるべきではないと存じます。(もちろん、その人自身は悪くないとしても、その情報が間違いであることには変わりないですが)

なので、ニュースサイトや辞書アプリなどでも、免責事項として「記載の情報の正確性、完全性、有用性などは保証しません」などと書かれてあったりします。私も比較的信頼性が高いと思われるサイトを使ってはいますが、それが絶対確実かといったらやはりそうではないと思います。



芸術作品などの創作物の表現はどこまで許されるのかという問いが物議をかもすこともあります。
自分としては、上に挙げたように他者の権利を侵害しないものであれば創作は自由にやっていいと思いますが、創作物の場合は、報道や演説等の場合とは違って、より広い自由が認められる余地はあると思います。

例えば、映画や漫画や小説などでフィクションの作品を作る場合、その内容が「事実ではない」からといって、嘘を教えているといって非難する人はあまりいないでしょう。(もっとも、こうした作品では注意書きで「この作品はフィクションです」等と書かれるが常ですが)
また、創作物の中で、作中の登場人物が反社会的な活動をしているからといって、それが即ち犯罪を扇動しているといって非難されるべきものでもないと思います。
こうしたことは創作物だという断りの上でやっていることですから、事実という体で行われる発表や直接なにかを訴える演説などとは違うものだと存じます。

とはいえ、創作物の表現が、どこまでが許されることでどこからが許されないことかといった線引きは、それをはっきり決めることはかなり困難であると思いますし、多分決めるべきでもないでしょう。こうしたことは作品を作る側の判断に任されているという面が大きいと思います。

もっとも、創作物についてはそれを受け取る側にも見るか見ないかの自由がありますし、内容について批評する自由もありますから、作る側がその意見を取り入れても必ずしも不当ではないと思いますが。