empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

「保育園落ちた日本死ね」がヘイトスピーチだという言説

少し前に、「保育園落ちた日本死ね」というタイトルのブログが話題になって、それがきっかけで日本の育児環境の不備が問題として取り上げられたことがありました。

しかしこれに対して、「『日本死ね』などと言うのは日本に対するヘイトスピーチだ。反日だ」「日本人ならこんなことを言われたら不愉快になるはず」「この言葉を評価している人々は本当に日本人なのか?」「こんな汚い言葉が流行語なんて悲しい」などと言って非難する人々がいました。

この「保育園落ちた…」のブログの原文を読んでみれば、この書き手は日本国そのものや日本人一般に対して死ねと言っているわけではなく、「少子化どうにかしたい」とか「女性が輝く社会」とか言っておきながら育児環境を整えようとしない行政に対して怒っているのだということはわかるはずなのですが、「日本」に対してあまりに深い思い入れを持っている人々は、どうやらいかなる理由だろうと「日本」が死ねと言われることには耐えられないようです。

さて、ではこの「保育園落ちた日本死ね」は日本に対するヘイトスピーチなのでしょうか?
私は違うと思います。なぜなら、ヘイトスピーチとは外に対して向けられるものですが、この「保育園落ちた…」は内に向けられたものだと思うからです。

どういうことかというと、次のようになります。
かつてアメリカの映画監督マイケル・ムーアは、「バカでマヌケなアメリカ白人」という本を書いたことがあります。この本はブッシュ政権時代(オバマの前)のアメリカ政府やアメリカ社会を痛烈に批判した内容です。(ちなみに原題は「stupid white men」(愚かな白人)で、直接には「アメリカ白人」に限定した言い方ではありませんが、もともとアメリカで出版された本であり、内容からしても世界中の白人一般を非難しているわけではなく、アメリカ社会の「アメリカ白人」に対するものであることは明らかです。)

さて、マイケル・ムーアがこのようなタイトルと内容の本を書くことができたのは、他ならぬマイケル・ムーア自身がその「アメリカ白人」の一人であるからこそだ、と私は思います。というのは、彼はアメリカ社会の一員であり、アメリカの政治に参加する権利(参政権)があり、アメリカの政策や社会情勢によって直接影響を受ける人だからです。
だからこそ、彼はアメリカの政府や社会に対して物申すことができるわけです。というのは、もしそれが禁じられているとしたら、それは政府や社会への意見が禁じられていることであり、彼の参政権を侵害することだということになろうからです。自国の政府や社会を批判できるのは市民権の一部であるはずです。

これに対して、もしアメリカ人でもアメリカ白人でもない日本人が「バカでマヌケなアメリカ白人」などという本を書いたなら、それはヘイトスピーチだと言われても仕方ないでしょう。というのは、彼はアメリカ社会の一員ではなくその参政権もないので、その批判はアメリカ人自身が批判するのとは意味合いが違ってくるからです。(ついでに言うと、とあるアメリカ黒人の漫画家がこの本について、漫画の中で「バカでマヌケなアメリカ黒人」っていう本を書いたら?と黒人の登場人物に言わせていましたが、これもアメリカ黒人でない者が同じことを言ったら差別だと言われるでしょう。)
つまり、自分の属さない集団に対して言えばヘイトスピーチになるようなことも、自分の属する集団に対して言えば、一種の「自己批判」のようなものになることがあり得るわけです。

自国に対して言えば正当な批判となるようなことも、外国に対して言えば差別となる場合があります。それでも外国を批判する場合は、一国の政治より広い人道的な問題や、「あの国はこのような政策で失敗したから我々は同じ轍を踏まないようにしよう」といった反面教師や、外国からの被害を直に受けた場合などであるべきでしょう。

上に述べたようなことからすれば、自国に対して言われる非難は許しがたいことどころか、むしろ「自国だからこそ」許されることなのだと言ってもいいでしょう。
政府や社会を批判することを禁じられている人というのは、本当にその国の市民なのではなく、被征服民なのであり、一種の奴隷状態なのです。そうではなく、むしろ恐れずに自国を批判できることこそ、本当にその国の市民である証なのだと言ってもいいでしょう。