empirestate’s blog

主に政治…というよりは政治「思想」について書いています。

明治維新の思想的背景と日本の伝統

人によっては、明治維新とは単に日本を近代化、あるいは「西洋化」させたものぐらいにしか思わないかもしれませんが、それはただ外国の影響によっただけのものではなく、日本自体の、内からの変革運動によるものでもありました。

では、その思想的背景は何だったのか?といえばそこには様々あるでしょうが、その中でも特に重要な役割を果たしたものは「国学」であると私は思います。

国学は江戸時代に興ったもので、内容は「日本」について研究する学問です。具体的には神道や日本語、和歌や有職故実などの研究です。この国学は漢学(中国の学問)や蘭学(オランダの学問、つまり西洋の学問)と並んで語られます。単に「国」と呼んで日本を指すのは「国語」や「国文学」と同じ発想ですね。

私は中央公論社の「日本の名著」シリーズで、国学者本居宣長平田篤胤らの著作をいくつか読んだことがありますが、そのいくつかを読んだだけでも、こうした思想こそが明治維新の思想的背景になったのだなと思わせられるものがありました。

もっとも、全ての国学者が彼らの思想に与したわけではなく、多くの派閥があったようですが、後世の日本に大きな影響を与えたのはこの本居宣長平田篤胤の系譜だろうと思います。ちなみに年代としては本居宣長が先で、平田篤胤は後に本居宣長を師と仰いだものの生前には直接弟子入りしていません。なのでこの二人の思想には違うところもあります。

で、その彼らの思想ですが、私の理解した限りではこういうものです。
まず、彼らは「本来の日本」とは何かということを追求します。そして、「神道」こそがその本来の日本の心を伝えるものだとみなします。そしてその神道によって天皇の主権者としての地位を権威づけ、その天皇によって治められるものとして日本と日本人を定義づけ、そしてこれら(神道天皇)によって日本の精神性や文化を定義付け、権威づけ、称揚します。そして、従来日本に影響を与えてきた仏教や中国思想などはこれを排除して、「本来の純粋な日本」を取り戻そう、というものです。(江戸時代という時代的制約のためか江戸幕府を否定はせずむしろ正当化してはいますが、原理的には江戸幕府の否定につながりかねないものではあります。そして実際そうなりました)
日本は(神道の)神々によって特に愛され守られてきた国であり、神国である。天皇の系譜がずっと続いてきたのもそのためである。そして日本人なら誰でも(たとえ普段はそう言わずとも)「我々は神の子孫だ。外国人などに負けるものか、という思いを心の奥底に持っている」はずだと言うわけです。要するに、かつて森元首相が言ったように、日本は「天皇を中心とする神の国」である。その「本来の日本」を取り戻そう、というわけです。
ことに平田篤胤の思想は、「新日本建設に関する詔書」(いわゆる人間宣言)で否定されたところの、「天皇を以て現御神(現人神)とし、かつ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念」そのものと言ってもいいようなものです。(平田篤胤は神話の記述をもとに、日本は世界で一番始めにできた、神に守られた世界に冠たる国であり、やがて世界中の国々は、本来そうであるように我が国の天皇に従うことになるであろう、喜ばしいことである、と言っています)

もちろん、前述のように全ての国学者がこのような考えに賛同したわけではありません。(国学者上田秋成は、本居宣長に対して、日本をして世界で最も優れた国だとするような傲慢な考え方はむしろ日本の精神性に反しているのではないかと言っていますが、これに対して本居宣長は、優れたものは優れているとみなすのが正しいことなのです、と取り合いません。この辺りのやり取りは現代の日本を見るような感があります)また本居宣長平田篤胤にしても、こういうことばかり言っているわけではないのですが、少なくとも政治的な面に関する限り、彼らの思想は現代で言えば「国粋主義」だと言わざるを得ません。

そしてこうした、神道を日本の精神の根本とみなし、それによって支えられた天皇を政治の根本とみなすような考え方、そしてそれこそが「本来の」日本であり、仏教や中国思想、ひいては外国のもの全般を不純物とみなすような考え方が明治維新とその後の日本に受けつがれてきたことは、尊皇攘夷王政復古の大号令国家神道廃仏毀釈、また大日本帝国憲法教育勅語軍人勅諭の内容などから明らかだと思います。

で、私としては、彼らの思想はそのまま受け入れるべきものではないと思います。なぜかと言うと、主に二つの理由があります。

まず一つには、彼らの思想が明らかに政教一致の思想だということです。つまり、彼らは「神道」を日本精神の根本としており、この神道によって天皇の立場を権威づけ、その天皇によって治められるものとして日本や日本人を定義付け権威づけているからです。つまり神道という宗教が根本にあって全てを支えている、と私は見ます。

確かに、かつての日本では「神道は宗教ではない」という理論で信教の自由は限定的に認められていたものの、それは国家神道の是とすることに反しない限りでの自由であって、実質的には国家神道とそれぞれの思想信条との二足のわらじを履くことを要求するものであり、しかも国家神道を上位に置いてそれに従うことを強いるものであったと私は見ます。
また、この「神道は宗教ではない」として信教の自由を認める理論は自発的なものというよりは、当時日本に強い影響力を持っていたいわゆる西欧列強がたまたまキリスト教が主たる国であったからこれに妥協したものであって、このような神国思想は、原理的には信教の自由を認めるものではないと思います。(横浜開港資料館の資料では、未だキリスト教が禁制下にあった明治の初め頃に、外国から信教の自由を認めるように要求があったために禁制が解かれたといいます)
そして実際、かつての日本では仏教が公的な立場から排除されましたし、津田左右吉内村鑑三、久米邦武など天皇神道に対して許されざる言動をとったと見なされた人々が迫害されることになりました。最近知りましたが、創価学会の初代会長もこのために獄死したそうです。治安維持法など人々の権利を侵害する制度も、国家神道に支えられた天皇主権の立場から正当化されたものと言えるでしょう。
ことに、この制約が学問の領域にまで及んでいたことは見過ごせないと思います。津田左右吉や久米邦武は神道天皇を排除、攻撃しようとしたわけでもないのに、それに対して独自の学説を唱えたために罷免されたわけですから、この禁制は思想の上にまで及んでいたわけです。聞いた話では、南北朝時代について政府とは違った見解を持っていた人も(政府は万世一系の立場から南北朝の並立という考え方を容認せず、南朝を正当と見なしていた)このために罷免されたと言います。

なぜ政教一致がいけないのかというのは以前にも書きましたが、主たる理由は、宗教は「信仰」にもとづくものであって、「客観的な事実」にもとづくものではないからです。政治は公共のことですから、客観性にもとづいていなければならないはずです。
「信仰」は客観的に証明できないものですから、個々人の信仰は尊ばれるべきであるとしても、万人の上に及ぼすことはできません。それが許されるなら、要するに個人の恣意に従うことを万人に強いても構わないということになろうからです。もしそうであるなら、結局は全てが力づくだということになるでしょう。
しかし、他人の恣意に従うことを強いられるのは人にとっては大きな苦痛であり、また学問や公共の事業にも大きな妨げとなりえます。個々人の思想信条や学問の公平さが守られるためには、個人的信条を社会に強いないことが必要でしょう。内村鑑三いわく、「人間の力なきことと、真理の無限無窮なるを知る者は、思想のために他人を迫害せざるなり」


もう一つの理由は、先の理由とも重なりますが、そもそもこうした国粋主義で語られる「神道」や「本来の日本」の内容自体が、それを語る論者の考え方しだいで変わってくるからです。
そもそも神道を「日本の心」の根本とみなすこと自体が一つの仮定でしかありませんし、その「神道」の内容も、実は「こうであるはずだ」と仮定されたものかもしれないわけです。
かつての日本では国家神道に従うことを強いられたと先に書きましたが、では「神道」の関係者はいい思いばかりしていたのかといえばそうでもなく、仏教と習合していた神社には神仏分離があっただけでなく、祭神が不明な神社の中には祭神を記紀に出てくるものに変えさせられたり、一町村に一神社という政府の方針のために神社合祀で統廃合を強いられ、神社がなくなったり、伝承が途絶えてしまったものもあると言います。また神道教団の中には国家神道と相反する立場のために迫害されたものもあると言います。
また先にあげた津田左右吉や久米邦武は神道天皇自体は否定していないのに、それについて異なった意見を述べたために憂き目を見ました。要するにこうした政教一致の体制では、「異教」だけでなく「異端」も攻撃の対象になり得るわけです。
世の中には「一神教は一つの神しか認めないから不寛容。それに比べて多神教は寛容」というような言説がありますが、私の考えでは、宗教が寛容かどうかは、「一神教多神教か」によるのではなく(そもそもその線引きも難しいですし)、「政治と一体化しているか否か」が決定的な要素だと思います。このことは、伝統的に多神教の国である中国や北朝鮮と、一神教の国である欧米とを比べてみればわかるでしょう。その欧米でも政教一致の中世と政教分離の近代とでは違いますし、同じイスラム教が多数派の国でも、政教一致サウジアラビアやイランと、政教分離のトルコでは宗教事情はまるで違います。(最近はトルコも怪しいかもしれませんが)

また、「神道」や「日本の心」や「本来の日本」についての解釈が論者の思想しだいである例としては、例えば次のようなことがあります。

現在日本の古典として、また神道の典拠としてまず上げられるのは「古事記」であることが多いように思われます。神道関係の本を読んでも、古事記の記述を前提に書かれているものが多いと感じますし、日本の古典がシリーズで刊行されている場合、古事記が筆頭に来ている場合が多いと感じます。
しかしながら、このように古事記が重視されるようになったのは実は本居宣長の思想によるところが大きいと言います。従来、日本では日本書紀のほうが重視されており、古事記は文体が難解なためもあって本居宣長の時代にはほぼ解読不能になっていたと言います。

しかし、日本書紀は中国古典からの引用などが多いことから、本居宣長古事記こそが「本来の日本の心」を伝えるものであるとみなし、古事記を解読して膨大な注釈を著し、ここから古事記が世の中で称揚されることになったと言います。平田篤胤もこれを受けつぎ、古事記日本書紀では古事記を先とし、両者の記述に食い違いがある時には古事記を優先するという読み方をするべきだと言っています。
確かにこうした古事記の解読は学問的に貴重なことではありますが、しかし「古事記こそが本来の日本の心を伝えている」というのは、つまるところ彼らの個人的見解にすぎません。古事記には偽書説もありましたし(現在では、本文はともかく序文は偽書ではないかという意見がある)、むしろ日本書紀のほうが日本の思想をより多く伝えていると考えることだってできるでしょう。それにまた「風土記」や各地の神社仏閣には、古事記とも日本書紀とも違う伝承が伝えられていることもあります。こうした典拠をどのように解釈するかによって、神道や本来の日本についての考え方は変わってきます。
例えば平田篤胤記紀の記述をもとにして、日本が世界で最初にできた国であり、諸外国はそのあとにスクナビコナによって作られたのだと言っていますが、これは彼の独自解釈でしかありません。
(個人的経験からしても、私は昔は日本の歴史書として古事記しか読んだことがなかったのですが、その後日本書紀や他の日本の古典を読むようになってだいぶ「日本」に対するイメージが変わりました)

また、本居宣長の特徴的な思想として、大和意(やまとごころ)と漢意(からごころ)というものがあります。(漢は中国のこと、ひいては外国のこと。つまり日本の心と外国の心)

本居宣長は、技巧をこらすことやくだくだしい論理を語ること、神話を合理的に解釈することなどを愚かしい人間の「さかしら」な心によるものとして、これを漢意(からごころ)と呼び、外国のものであり排除すべきだと言います。具体的には、従来日本に影響を与えてきた仏教や中国思想、これらによる神道の解釈などです。
これに対して、素直な心や自然な心、単純な信心や直情径行さを大和意(やまとごころ)と呼び、これを本来の日本の心だとして称揚しています。(神道は「自然を尊ぶ」宗教だと言ったり、「外国の思想は自然を征服する思想だが、日本の思想は自然と共存する思想だ」と言ったりする言説は、あるいはこの辺りに由来するのかもしれません)

ここからして、彼の後の世代には政治に関わることまでも漢意だとして忌避する人々もいたようです。(本居宣長はそこまでしていませんが)
しかし、このような心が本来の日本の心だとすること自体、やはり彼の個人的見解だと言わざるを得ません。もちろん、本居宣長は彼の時代になって突然こんなことを言い出したわけではなく、それなりの積み重ねがあって言っているわけですが、それは一つの解釈ではあっても、唯一正しい解釈というわけではありません。
そういうわけですから、彼らの考える「本来の日本」や「日本の心」というのは、あくまでも「彼らがそうだと信じているもの」であるわけです。

私は、日本の伝統は人権や政教分離法治主義国民主権といった近代国家の思想と調和できるものだと思いますが、それには国家神道にもとづく明治政府の体制のごときとは違う解釈をしなければならないでしょう。
明治維新は日本にとって重要な歴史の一部ではありますが、しかしそのまま全面的に受け入れるべきものだとは言えない、むしろその先を進んでいかなければならないものだと思います。