文章中で単に「国」と言われる時でも、その国という言葉の中では複数の意味が重なっていることがあると思われます。
例えば、行政の行為によって損害を受けたと思う人々が「国を相手取って裁判を起こす」などと言われる時、ここでの「国」は「政府」のことです。
また、「日本は島国で、中国の東、太平洋を挟んでアメリカの西に位置する」などと言われる時、ここでの「国」(日本)は「土地」のことです。
また、「源氏物語や平家物語は日本の古典である」とか「日本で人気のスポーツは野球やサッカーである」とか言われる時、ここでの「国」(日本)は人々の社会のことです。
そんなわけで、国という言葉には政府(統治機構)、土地、人々のコミュニティの三つの意味があると思います。(他にもあるかも知れませんが)
さらに、政府や人民にしても一枚岩ではなく、その中には複数の派閥があって、互いに対立していたりします。
大抵の国はこの三つの要素が合わさって存在していますが、チベットの亡命政権やディアスポラのユダヤ人などの例もありますから、必ずしもそれらが全て揃っているわけではないでしょう。
この三つの要素のうちどれを特に重視するかは時と場合や思想傾向によって違うでしょうが、私としては国民主権の観念からして、人々のほうが基礎だと思っています。
というのも、政府だけがあって治める人民がいなければ国とは言えないでしょうし、土地だけがあって人が住んでいなくてもやはり国とは言えないでしょうが、人々が協働していればそこには共同体がありますし、そこからそれを治めるための政府が必要になり、その人々が住むための土地が必要になるというわけで、その人民が基礎になって国ができるものだと思うからです。
もっとも、これは、だから政府や土地など大して重要ではないとか、政府と国民が対立する時には常に国民のほうが正しいとかいうわけではありません。
政府や土地も国民には必要なものですし、政府が国民には無いような知見によって民意の暴走を抑えるというということも必要だとは思います。しかし、政府のほうが暴走することもあるし、政府と国民の利害が対立することもあるということは覚えておくべきだと思います。
ところで、政治的な駆け引きの場面ではこれらの概念が混同されたまま「国」という言葉が使われていることがあると思います。
特に、「政府」と「人民」が混同されて一体のものとして使われることが多いように思われます。
例えば、香港では中国政府の圧力で「愛国者による香港統治」が主張され、「愛国者」でなければ選挙に立候補できないことにして、民主派を香港の選挙から閉め出すということが行われていると言います。*1
しかし、ここでいう「愛国者」とはつまり中国政府に忠実である者という意味であって、そのために香港の民主派は自分たちの都市の統治に参加できないことになってしまい、昔の香港を愛する人々は弾圧され、そのために亡命する香港市民たちも出たわけで、こうした人々は「愛国」を標榜する政策のためにかえって亡国の憂き目を見たと言っていいでしょう。
アメリカのトランプ元大統領は「アメリカ・ファースト(アメリカ第一主義)」を主張してきましたが、自分と政治的に対立する人々は攻撃してアメリカ社会の分断を煽ってきたと言われますし、そうしてみると、彼の言う「アメリカ」の中には彼と政治的に対立する人々が含まれているのかどうか怪しいものです。
かつての東側の社会主義国では「人民」の主権が主張されていたようですが、その中で政治的な対立によって「人民の敵」だと見なされた人々は、自らも人民の一員であるはずなのに人民の名の下で弾圧されることがありました。
トランプ氏はアメリカの政治家なわけですから「アメリカを第一」にするのはある意味当たり前のことですし、「人民」の主権を言うことも間違いだとは思いませんが、単に言葉の上でそうなっているというだけでなく、その内実がどういうものであるかを注意する必要があるでしょう。